March 11, 2008

Authentic Movement

authentic movementというものを最近友人達とやっています。
一番最初にそのことを知ったのはBody Mind Centering (BMC)というボディワークをやっている友人の吉田美和子さんとドイツ人のBMCワーカーのYansから。彼女はアメリカでそれを知ったとのこと。アメリカでBMCのワークを勉強してくる過程でいろいろ感じたこと・体験したことと自身のからだや自身というものをそのつど「統合」してくれる「なにか」であったというようなことを話していました。authentic movementというのはそのBMCというボディワークのうちのひとつ、というわけではかならずしもないようで、最近目にした本「新しい芸術療法の流れ クリエィティブ・アーツセラピー」(フィルムアート社)のなかではBMCというワークには触れられずに、「dance movement therapyのうちでよくつかわれるもの」というような紹介のされかたになっています。

どういうものかと簡単にいうと、二人組のパートナーになってひとりが目を閉じて動く(mover)。もうひとりはそれを見ている(witness)。そしてその後、お互いに感じたことを伝えあうというもの。でも、そのさいに伝えあうのは「そのとき自分がどう感じていたか」「自分になにが起きていたか」ということで、見ている側(witness)が伝えるのもmoverの動きや「いること」への見た側からの批評とか、評価ではない「見た側におこっていたこと」であるというのが「動きを批評しあう」というようなものとは大分異なったもののように感じられます。

「最初にmoverが初めに話して、大事だと感じていることをすべて話す。witnessはmoverが話し終わるまで沈黙のままで聞く。それからwitnessはmoverとの自分の体験を共有する。witnessもまた自分が大事だと感じていることを話す。〜witnessは自分自身の知覚と感情について話すのであって、moverの体験についてではないことを明確にしておく」(前書から)

moverが「動く」といっても、動かなければいけないわけでもないし、自分のなにかを「動きにしなければいけない」というのでもなくて、もちろんperformanceとして見せてる動きをする必要もないもののようです。まず、目を閉じて自分を感じながらいるということ。ひとりで目をとじて動くのとも違う、見ているひとの存在が「容器」としての環境になろうとしてるはたらきのある場で起きてくる、「動き」と「自身」とを感じていること。そしてwitnessのほうは、そのとき、見て相手のことを聞き入ろうとしながら、その自分の体験を感じているということ。このような関わりがauthentic movementのベースにあるようです。

自分で何度かやってみて、特にwitnessの時に感じること、見ているときの自分の状態はどう今いるんだろう、というのが面白いと思います。ダンスの公演や稽古をみているときは「からだ」をじっと追いつつも、どこかで判断・分析・批評を当然しながらみているわけで、そのことから離れて見るというのも揺れながらなのですが、その意識でみていると、「うごき」をみているのではなくて「からだ」そのもののいる感触を息を重ねるようにみているような感覚になります。また、ダンスを見ているときはからだと、うごきと空間と意識とすべて見ようとしてるような見方になっていると思うのだけれど、authentic movementのwitnessのときはほとんど「からだ」というか「からだの時間」というようなものしかみていないようになっていくような感じがします。同じ場所で何組かのパートナーが同時にやっていても、どんどん自分のパートナーしかみていない(ダンスをみるときはそうではないので)ようなタイプの集中?のしかたになっていく・・・。前いちど奇数の人数しかいなくて時間節約のために「ためしに」ひとりで二人のmoverを見るということをやることになったことがあったけれど、「お話にならない」というか「無理」です(笑)、という感じでした。やはりそういうやりかたではあまりにもwitnessの見方でいることができなくて。
「見ている」ということのなかにいろいろな層があって、その質が見ているときの意識によってこうまで違うかと感じさせられたような体験でした。

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June 01, 2007

supportについて思うこと

yoga theraphy(といってもあやしい療法ではなくて、体をある「感覚的にぎりぎりに開かれるところ"edge"に人のサポートによってとどまってみてそこで起きることを感じる、というようなほとんどボディワークという感じだけれど)の講座で。
ふわっと触れられる方が「support」されていて預けられる感じがするか、しっかり強く持ってもらっているほうが「support」されているという感じがするかはその「受ける人」によってかなり違うみたいで、難しいところ。サポート側をやるときは「押さえられている」というふうに感じられるのではなく落ち着いてサポートされているという感じで受けてもらえるにはどうしたらいいか、というのを考えて試します。
そのなかでいくつか気付いたことを。
1)持続的な(ふらふらと変化しない)質で(ぶれない質で)触れていること(圧の質も)。結構難しく、知らずのうちに質がうろうろしていたりしてしまうけれど。
2)「重みでつながっている」感覚。体重をかける、とか力で押すというのではなくて。重みでつながってひとつのものになっているような感覚。同時に「押さえてパートナーのポーズをkeepしている」というような「つもり」から離れること。

「脚上げ」・「カポタ(鳩)」・・・e.t.c

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中井久夫さんの「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)
を読む。どのようなひとつひとつのこと(それはちょっとした言葉であったり、医療者のこころのなかでのつぶやきのようなことばかけであったり、患者さんとの挨拶だったりとか様々なことなのだけれど)が「治療的」にはたらくものなのか、中井さんのこれまでのなかで培ってきたことが書かれてあります。
実はボディワークもこういうことが大切で、「なにかをこうしてあげよう」とか「体験を与えてあげよう」いうのは思い違いなんじゃないかと思います。


おどろくべき病的体験、たとえば世界が粉々に分解するというようなまだだれも報告していない現象を話してくれる患者がいたとします。その彼が友達と映画を観に行ったり、ベースボールをしたり、喫茶店に行ったりしたことを、私は驚くべき病的体験の話よりも膝を乗り出して興味をもって聴けるか。-じつはそれは、医学部に入ってから何十年たった人間、医者の世界で生きてきた人間にはとてもむずかしことです。この点は、看護師の世界はそれほどではないかもしれない。あるいは、たいていの患者は看護師が健康な面に光を当てているからこそ治るのかもしれません。(本文より)


Nakai

中井久夫「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)・・シリーズ・ケアをひらく叢書・・

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January 20, 2007

クラニオセイクラルワークショップのおしらせ

ほとんど二月ぶりの更新です。年もあけてだいぶたってしまいました。
寒くても「冬だ!!」という感じの冷え込む感じとは少し気配が違っていて、ひょっとして東京はことし雪降らないんじゃないかしら、とも思います。

以前私も参加したことのあるクラニオセイクラルワークの紹介・一日体験ワークショップの案内をいただいたので以下に写して載せます。ボディワークや「触れることの中でいろいろ起きてくること」などに興味、関心のある方には面白い、いろいろ考えたり感じたりする時間になるのではないかと思います。
以前このブログの中で書いたクラニオセイクラルワーク・ワークショップのレポートです。
イントロダクション
ベーシック・モジュール1

以下はワークショップの企画者の大森さんからの情報です

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クラニオセイクラル・バイオダイナミクス
イントロダクション・ワークショップ

初心者または、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスのワークを体験したい方の、1日イントロダクション・ワークショップを開催します。
「クラニオって何?!」という方から、「クラニオセイクラル・セラピーは知ってるけど、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスとの違いってなあに?」と思われている方、生命のダイナミズムや人間の持つ自然治癒力に興味のある方、どうぞこの機会にご参加ください。

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスとは・・・
クラニオセイクラル・システム(頭蓋から仙骨に至る硬膜という膜の内側)には、脳脊髄液が循環しており、脳と脊髄をすっぽりと覆い包んでいます。このクラニオセイクラル・システムは“生命呼吸”の中枢と考えられており、そこから身体全体にこの呼吸モーションが広がっています。この呼吸のような運動を5グラムといわれるやさしいタッチで触診し、強制することなく、クライアントが本来持っている健康を引き出してゆきます。このワークによってクライアントは日常では経験することのないような、深いリラクゼーションと瞑想的な時間を体験します。
関連サイト:http://www15.ocn.ne.jp/~medicina/bodywork/craniosacral.html

■日時 : 2007年3月4日(日) 10:00-17:30
■会場 : 五反田JMAスペース
(東京都品川区西五反田2-23-1 スペースエリア飯嶋2F)
URL http://www.jma-inc.jp/map/map-00jma.html
■交通 : JR「五反田」駅 より徒歩5分
■参加費 : 22,000円 (当日受付にてお支払い)
■定員 : 16名 (最小催行人数:6名)
■講師 : 加藤かえ子(コマラギータ)
■お申込み/お問合わせ: メディシーナ/大森文勝
E-Mail:medicina@sunny.ocn.ne.jp

《講師プロフィール》
加藤かえ子(コマラギータ)
・The School of Craniosacral Healing Art スクール・ディレクター
・クラニオセイクラル・セラピー・アソシエーション・オブ・ザ・ユナイテッドキングダムにプラクティショナーとして加入

※2007.4月12〜15日まで、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスのプロフェッショナル・トレーニングコース(モジュール1)が開催されます。このコースに参加しようかどうか迷っている方も是非、今回のイントロダクション・ワークショップにご参加ください。

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October 09, 2006

メモランダム(股関節2編/Kripalu DVD)

1.一人が仰向けになり、もう一人、パートナーが片足の足首のあたりをもって少し持ち上げながら脚を引っ張る。そのとき引っ張る人は「ねらい」を相手の股関節にしてみたり、みぞおちの奥(背骨に大腰筋がついてるあたり)にしてみたり、頸椎と頭の境にしてみたり。持ち上げる角度を少し変えて引っ張り上げてみたり、横にひろげてみたり・・。「脱力して脚をあずける」というのとはまた違った感じがおきます。受け手もその「ねらい」の場所を意識して引っ張られてそこがひらいていく、その中のスペースが拡がっていくようなイメージをもっていると、受けていてとても面白いと思います。股関節の場合、引っ張られている側の股関節だけでなく、もう片方の股関節が引っ張られる方につられていってしまわないように、ゆるんで「そこで動く」イメージをもっていると「ここに股間接があるのか」ということが実感できるように思います。もう片側の股関節を、ゆるんでいつつも「自分のからだの居場所の支点」として意識してみている、というイメージかなと思います。

2.ヨガの「三角のポーズ」で。自分がやっているところのヨガ(クリパル・ヨガ)では、「三角のポーズ」のときに骨盤を横に押し出すことによって上体が斜めに傾いていく感じになります。脚を開いてポジションを決めてそこから「骨盤を押し出」そうとしてもなかなか動いてくれない。(そのまま骨盤だけでやろうとするとブロックされているようでうまく動かないのは当たり前なのだが・・)真横に向いている脚のほうの股関節(?)が支点になってそこが骨盤を押し出しながら開かれていくような感覚でできるといいようです。これも股関節というものを実感としてはっきり感じられます。「知ってそうで知らなかった感触」。実はかなりきつく(笑)もあるのですが楽しくもある感覚です。

クリパルといえば、アメリカ版の教材(と言うのかしら?)DVDを見て「目からうろこ」という感じでした。「動きがすごい」とかいうようなこととは全く別の意味で。
いままでいくつかヨガのDVDはみたことがあるのだけれど「うごき」をみせていたり、「ポーズ」をみせていたり(もちろんそのための映像なのだろうけれど)という感じの印象のものが多かったのだけどこれはそういうものとは違っていました。うごきを映してしているというより「そこで感じられる感覚を味わっていることの中に入って、その場所から『自分』をみている」というようなありかたが映っているような感じでした。変なたとえだけれど、静かに佇んでいる動物から感じられるような「過不足なさ」の質感が、動いている人をみていて感じられてくるような。皮膚と空間の温度が自然と重なっていってひろがってそこの空気をつくっているような。

Sudha Carolyn Lundeen「Kripalu Yoga Gentle」

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September 18, 2006

「Hands on」のなかの「space」

9/7〜10の4日間、クラニオセイクラル・ワークというボディワークのセミナーに参加してきました。春に一日体験紹介(?)講座(イントロダクション)に参加して、今回は本セミナーの一番基礎の基礎の入り口の講座です。(クラニオセイクラル・ワークがどんなものなのかは春の講座に参加したときの記事を読んでいただけたらと思ます。)

「触れている」こと、「hands on」ということのうちにあるspaceというか「層」のようなものをいろいろ驚きながら感じていました。spaceの質が変わっていくと、感じられてくること、あいてからだから「聴こえてくること」(ひょっとしたら「聴こえてくること」ではなくて「相手のからだのほうがひらいて話しかけてくれること」でもあるのかもしれませんが)が変わってくるということを4日間のあいだにいくつか体験したように思います。

自分がふつうのチャンネルで「触れて」いちばんとらえやすい、tuningしやすい「からだの内側に感じられるmovement」は、心拍がからだにひろがっていった、血流がつたわっていくような質や内臓的な感じをうけるような密度のうごき。触れている手の内側や、自分の腹部の中での動きを感じながら、相手のからだの内側にも意識を向けると、(たとえば自分の腹部の中を放して、相手の腹部から感じられるうごきの気配とかさねていったりすると)自分のうごきとあいてのうごきがともに揺れている波になっていくような感覚に入ります。その感じに入って少し経つと、心なしか視界も揺らめいていくような感じになるときもあります。でも、この「うごき」の感じはクラニオのワークでtuningしていこうとする質の動きではないようです。

今回の講座ではクラニオのなかでとらえようとする潮の干満のようなうごきのうちの二つのもの、「Mid-tide」(Fluid-tide)と「Long-tide」を感じてみるということをしました。ミッドタイドは約2.5サイクル/60秒のモーション、ロングタイドは約1サイクル/100秒のリズムで触診されると言われています。ミッドタイドは液・組織にあらわれる質のうごきとして、ロングタイドは「身体とその周辺に作用する求心と遠心の風」のような質のうごきとして感じられるそうです。

受講者同士による練習交換セッションで自分がクライエント側(ベッドに寝て頭部に手を触れてもらっている)のとき、施術者・プラクティショナー側のパートナーのサポートとして講師のコマラギータ(加藤佳江子)さんが触れてくれて、その質感に驚きました。とても軽く柔らかく、「触れているけれど浮いている」というような質感に包まれるような感じです。そして、皮膚の面で触れられている(もちろん接しているところは「皮膚の面」なのですが)というよりは、Handの厚みそのもので触れられているような質感だったように思います。「意識を手に集中してしまわないで軽く触れる」とか「5グラムタッチ」と言葉で言ってもやはりよく掴みきれないのですが、「触れられた感触」として気付くことのほうが大きかったように思います。「これは触れられ、聴かれている身体のほうもひらいて『放して』いくなあ・・・」という。そのときのコマラギータさんの手から受けた感覚を自分の手の方にもうつしてみるようにイメージしてみて、また、その後で自分で自分の頭に触れてみて「受け手」・「触れる側」の両方同時にいろいろやってみて少しづつですが「これがミッドタイド?」という気配のものを感じ取れるようになってきました。受け手としての感触が変わっていくには触れる手の方の質感をどうしてみたらいいかな・・、そしてそのとき手のほうに感じられてくるものは変わってくるかな・・とセルフセッション。自分の感じとしては、やはり皮膚面ではなく掌の厚み全体で(甲のほうもふくめて)触れているような感じになって、触れている指だけでなく掌のまんなかのくぼみでもうごき、相手を感じて包むようにイメージしてみると感じとれやすくなるような感じがあります。ときには甲のほうの皮膚があいてのからだの表面の「水面のようなもの」に浸されつつ浮いていて手の本体?は「水面」のうちに隠れているみたいな感じにしてみると感じられるような気がするときもあります。でもそのときによって違うのだけれど。

最終日のテーマの一つは「ミッドタイドが感じられたら、ロングタイドに広げてみましょう」ということ。私の場合は受け手でいるときに自分のロングタイドを感じることはまだできない(というかよくわからない)のですがこの日のパートナーの方は感じとることができるようでした。膝からセッションに入っていって触れていたとき、「膝が上にあがっていく、このリズムの感じはロングタイドかも」(もちろん実際にベッドから膝が浮いていく訳ではないのですが)と言われて、そのとき触れている自分はその膝からのうごきを感じとれてはいなかったのですが、自分の手の感覚を、ミッドタイドを感じ取っていたときよりももっと軽く、掌、指の中の質感を「粒子がそのうちを動けるスペースのようなもの」「手指が粒子みたいなもので風がとおりぬけていくようなもの」そして触れているパートナーの膝も「粒子みたいな質感のもの」だとイメージしてみたら、「?!」というようにパートナーの膝が中からふわーっと膨らんでくるような動きが自分の手の触覚のフィールドにあらわれてきました。ミッドタイドよりももっと軽く気体的な質感のものがなかから膨らんでくるような感じで、感じているあいだにそのうごきは、「相手のからだの中の」というところから少しひろがって、こちらの手指の厚みくらいの空気の層まで一緒になって膨らみ、引いて、というような気配で感じられてきたようでした。パートナーの方と二人で「今、あがってきてるよね?」「うんうん」、「あ、下がっていった」「ほんとだ」というように驚き、話しながらやっていました。不思議だったことは、ロングタイドを感じた後にミッドタイドにシフトしなおしていったら、それまで「薄く」感じられていたミッドタイドが、流体的で内発的な力(ちいさいけれど自発力を秘めたものとして、という感じかな)をもっているものとして感じられてきたことでした。知覚する側がロングタイドの質から帰ってきたときに、よりミッドタイドの持っている質、気配が確かなものとして感じ取れたのかもしれません。このときのミッドタイドの感じは、「手を静かに浮かせておくと波のうごきが一緒に手を運んでくれる」というような感じに近かったように思います。

「受け手」としても、最終日はクラニオのさなかに起こることのエッセンシャルなものだとも言われている「スティルネス」というものを、はじめて自覚的に感じることができたかもしれないと思います。からだの中が感覚的にはとても静かなさざ波の湖面のような気配のものに感じられます。静かだけれど、空っぽというよりはなにか密度はしっかりとたたえられてあるというような感覚。そのなかで腰椎の下部のほうがひとつひとつくっついた骨のあいだを引き剥がして伸ばしていくような感じになったり、みそ落ちの下のほうから胸郭のなかのほうへ、呼吸ではないのだけれどなにか上ってくる感じがあって、それまでは「このままでは抜けてしまって立てないんじゃないのかしら」という感じだったのがなに芯のようなものがおさまるような感じになったりと、いろいろでした。

今回のクラニオセイクラルのセミナーでのことや自分でするワークなどのことを振り返ってみると、やはり「触れられて実感として気付くこと」というのがとてもあるように思います。たとえばコマラギータさんに触れられたときの感覚のことや、「緩めあい」のようなワークのなかで「踏むマッサージ」のようなものなどをとおしていろいろな人に「踏まれ」ることをとおして初めて気付いてくること。触れる側としては多分、触れ方の質が変化していくことによって感じられてくること(受信できること)が違ってくるし、またそれは「感度」の問題ということだけにすまされず、触れ方によってあいてのからだの方が「ひらいてくれる」「放してもいいと感じてくれる」質というかレベルも変わってくるように思います。実はtuningしていこうとするのは触れる側だけではなくて、触れられる側からもtuningをしようとするはたらきが起きていて、そのtuningが開いていくことにつながっていけるような、tuningしようとする流れをブロックしてしまわないような触れ方(聴き方?)という面がとても大きいのではということを思います。たとえば踏まれていて、(クラニオでのtuningとは見ようとしてる側面がだいぶ違うけれど)刺激を受け入れて受け止めてそこに身体をあわせていくのに必要な「間」(tuningのための必要な時間?)があるのを感じます。その「間」を「みとめてくれている」ということを踏み方の質としてからだが感じられれば、受けていても「強さ」(もちろん物理的に「無理」な強さ・痛さもありますが)や痛さの感覚を味わいながら、からだの中にそれを通して受け入れて流していくことができるというようなこともあるように感じています。

たとえば先に書いた、多田・フォン・トゥビッケル房代さんのセッション記録映像から感じ取られる触れ方・サポートのしかたと、同じ学会の購買で売られていた(テレビでサンプル映像が流れていた)外国の音楽療法家の方の教材ビデオでの触れ方・クライエントの手をとっての動かし方と(ほとんど音に合わせて歌いかけながらの「機能訓練」にしか見えなかった・・)との見ていて受ける感じの「ちがい」(それこそ、そこの空気の気配の「ふくらみ」の違いというような)などもあわせて、こういったことにつながるものとして考えてしまいます。

触れるということの中にあるいくつもの層やspaceの質のこと、それが変わっていくことで、「感じとれることが変わる」だけでなく「放してもらえる」(話してもらえる?かもしれませんが)ということの質もそこで変わっていくのだということを思います。

 ※クラニオセミナーのコマラギータさん、アシスタントの「りゅー」さん、そして一緒に参加されていた受講生の皆様、ありがとうございました。

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August 28, 2006

「みみを澄ます-からだ と こえ-」

8/26日に、日帰りで仙台・宮城学院女子大学で開かれていた「第六回日本音楽療法学会学術大会」に行って来ました。行きは普通電車乗り継ぎ、帰りは夜行バスという節約とんぼ返り行程で。もちろん私は学会員ではないので一般参加での聴講です。目的は多田・フォン・トゥビッケル 房代(のぶよ)さんの講演を聞きに行くこと。多田・フォン・トゥビッケルさんはドイツのミュンスター郊外で「音のアトリエ」を開設して、音楽治療(彼女は"音楽療法"ではなく"音楽治療"と言われますが・・)のセッション、即興ワークショップ等をされている方です。講演は「みみを澄ます-からだ と こえ-」というタイトルでした。(多田さんの著書「響きの器」人間と歴史社刊については以前記事のなかで紹介したことがあります。)

多田さんが感じていること、思うようになったことなどを話された後、ケース(事例)でのセッションの様子、「うごき」を録音記録とヴィデオ記録によって必要によってコメント、説明を差し挟みながら紹介されました。


ドイツ語では「声」(stimme)という言葉から「調律する、調整する」(stimmen)という動詞がうまれ、その進行形の名詞型(stimmung)が「気配、気持ち、雰囲気」ということばになっていく。

耳(みみ)を澄ます-身と身を澄ます?-

かたちがあるものではないけれど、風の波動を感じると皮膚の「ふた」がおのずとひらいていくような・・・

自然に対して気配を気づかうようになっていくとこちらの感覚もひろがっていくように思う・・

声は「声」として表に発せられて気配としてあらわされる「前」から、そのひとやそこにあるものうちに(「波動の芽」?のようなものとして・・・)存在しているものではないかしら・・(出ている結果としての「声」ではない『声』?)

声が自由にうごけなければ「気配」もうまれていかない・・

(講演を聞きながらのメモからなので間違い、不備があるかもしれませんが・・)


回数をかさねて(何年ものなかでの、もあるようです)いくうちでのクライエントのからだからあらわれている気配、表情や、セッションのなかでの声の立体感のようなものの変化、うごきが録音やヴィデオから感じられます。また記録のヴィデオから感じられる多田さんの触れ方、身の置き方の気配も見ていてはっとさせられることが多々ありました。添い方、触れかたの質感と細やかなところにいくつもあるはずのspaceと、そして自分の感覚にもおりてあるような気配と。波動というか、動きや声の振動が交さなったり交換されるように伝わったり、ひろがっていくことのできるような係わりかけと、気配と。
「クライエントのあなたに」、というチャンネルの向きかただけでは、そこでなにかが動きひらいていくための単位としては開かれていなくて、「セラピストの私とあなたと」、ということでもきっとまだ十分ではなくて、空間、そして関わりのうちからあらわれてきた気配、空気のようなものや風のようなそこにあるものまでもが単位で、それはうごき流れていて・・、ということを多田さんのセッションの記録を見ていて感じさせられます。

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青山真治 「サッド・ヴァケイション」(新潮社刊)
古井由吉 「辻」(新潮社刊)
山中康裕 「こどものシグナル」(basilico刊)

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August 05, 2006

メモランダム/チーズとうじ虫

7/28に久しぶりの踊りの会「塊に、転がす」をおえて。
鈍い光の空間、光の反映の空間のなかで、流れてしまわないで、でも閉じてしまうのでもないありかたをおいかける。背骨が支えたりkeepしていたりというのではない、両方向にずっと伸びて「ゆこう」としているベクトルでいるようにということ。その「方向力」みたいなものが、大切なような気がする。また、生理とつなげた「呼吸のような」ひとつにながれる感覚で「そのとき」を測っていくのではなく、肋骨や胸や、左右それぞれの手(hand)、足(foot)でそれぞれが「そのとき」を測っているような感じであるように、そして目、見ていることでも。動いているさなかの意識の質、静かさみたいなものがだいぶ変わってくる気がする。

ヨガは自分に向いてるらしく、具体的なからだのことで、ヨガをしているときに気付くこと、気付かされることが多い。先の背骨-ベクトルのことや目、見ているということの質の部分でも。

Adho Mukha Svanasana(下向きの犬)で腰を脚のほうにつなぎおろす(といっても高く上に向かうのだけど)ように受けたサポート。
Urdhva Mukha Svanasana(上向きの犬)での「支えている」のともkeepしているのとも違う、からだの中から張力がひろがっていくような感覚。

「チーズとうじ虫」というドキュメンタリー映画のことを友人に教えてもらい、今朝見に行く。東中野のポレポレ坐でのモーニングショー。今日が最終日だったので、加藤治代監督の挨拶も。
母親の病気、入院と死去、そしてそのあとの生活〜を母、祖母、監督自身という家族(と兄の家族と)にビデオカメラを向けて撮っている。
「カメラを向ける-距離感の密度を詰める」というのとも違って、もちろん対象として観察、突き放して見ているというのでもなく、「空気というやわらかい一枚の皮膚のようなものを間にはさんでの隣りあい」というような距離感。「問う」というのではなくて、「聞いてみる」というような距離感。見ていて、加藤監督がとっている、選んでる距離感に共感して。

ひまわりにとまって蜜を力一杯吸っているアゲハも肥料用の残飯溜の中のうじ虫も同じようにうごいている。

母のことを撮ったビデオを亡くなったあと、祖母と監督が見ている。

撮られた映像、画だけではなくて、どんな空気を着るようにこのひとたちのなかで生活が時間になっていくのか感じられてくるような、そのことが作品になっているような映画のような感じがする。

「チーズとうじ虫」公式ホームページ
加藤監督、関係者のブログ「ひまわり日記」

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June 02, 2006

おもてのみぞおち、うらのみぞおち

からだにのせてみる言葉です。

「みぞおちをゆるめる」というのはよく耳にします。「みぞおちをゆるめて呼吸が入ってくるように・・」とか。
そのときの「みぞおち」はからだの前側からイメージしてとらえていると思うのだけれど、後ろ側(背中側)からみてみたら?という感じでしょうか。
いや、それよりはからだの奥に「みぞおち」というやわらかい空気の球みたいなものがあるとして、その前側と裏側をふーっつと緩ませて奥にある空気球のみぞおちの気圧がそれにともない緩んでいくというような感じかもしれません。その「緩んだ」状態をkeep(固めてキープするのではなくて)していつづけてみようとすると、腹部がひろがり、ふくらみのあるスペースとして、(そしてその中がゆらゆらうごきのあるものとして)感じられてくるように思います。

この感覚・イメージのヒントは先日参加したロルフ・ムーブメントのワークショップ(ロルファー扇谷孝太郎さんによる柔軟性ワークショップ)のおりに感じた胸郭の後ろ、下部が開いていく感覚から。からだの構造の微細な部分をイメージにうつしてとらえてつながり・かかわりをもったものにしてとらえて(コーディネーション)、感覚の中身が変化していくことによってからだのありかたに変化をうながしていくような感じ、プロセスでした。

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April 13, 2006

Craniosacral Workワークショップ

数日前に、クラニオ(クレニオ)セイクラルワーク"Cranio Sacral Work"のワークショップを受けてきました。以前幾度かセッションを受けたことがあり、そのなかでからだの中が波打っていったり重くなったり、というような感覚におりたことがあって、機会があったら講座のようなものを受けてみたいと思ってました。kripalu yogaに通われ、ブログを通して知り合った(お会いしたのは今回が始めてでしたが)kazuhaさんがクラニオをとりいれたエサレン・ボディワークのWorkerをされている方で、今回参加したのは彼女が企画、オーガナイズをされた、クラニオプラクティショナー加藤佳江子(komalagita)さんのワークショップ。私が参加したのは基本と、クラニオというもののスタンスを紹介するという感じの内容の、イントロダクションの講座です。

クラニオセイクラルワークは日本語にうつすと、「頭蓋仙骨療法」とあてられるようで、「文字通り」といえばそうなのですが(笑)日本語にするととても重々しそうな響きで骨をなんとかするのか?という感じですが、あまり、そうではないようです。1900年初頭にオステオパシーの学生であったW.G.サザーランドによってひらかれ、その後、J.E.アプレジャーらによって展開されたものだそうです。(詳しくは、アプレジャー著の「もうひとりのあなた」科学新聞社刊や「クレニオ・セイクラル・セラピー」たにぐち書店刊などを・・)日本ではオステオパシーの施術者やロルフィングの施術者の方が併行してしていることの多い、5グラムタッチといわれる、ほとんど圧をかけない触れ方によるボディワークです。

頭蓋骨(その縫合部)はサザーランドの当時、生育につれて固着すると考えられていたけれど、彼は縫合の構造形態から「呼吸のような動きをあらわすのではないか」と考え実験をし、その頭蓋骨の動きが精神、生理機能に影響を及ぼしていることを発見したのだそうです。そこでの動き、motionには実際に、あるリズム(三種類のスパンのリズムの相)が確認され、脳脊髄液の生成のリズムやからだのなかでの何らかのリズムがベースにあるのではないかと考えられているようです。波打ちのリズムのように感じられるからだのうちに起きている組織間の"呼吸"のような動きに、軽く触れていることによって施術者とクライアントの身体間のあいだでチューニングがおこるように、それをとおして身体からの作用として変化が促されてくるように、というもののような印象です。

アプローチの仕方、捉え方のちがいで「流派」のようなものもあるようですが、今回参加したのは"Craniosacral Biodynamics"というもののワークショップで、説明、紹介のあと、参加者同士で体験しあってみるというもの。一人が寝て、一人が頭に軽く両手で包むように触れる。そのあと、同じようなことを仙骨でもやってみる(こちらは片手で)・・・。

触れるといっても、何か「気を送っている」ようなつもりにはなってしまわずに、「圧す」のでもなく、さらに触れているところや、触れる手のひらに意識を集中させてもいけないというアプローチ。ましてや操作や、「motionを探そう」とか、「なんとかしてやろう」というのは違うという、なかなか微妙なポジション、スタンスでいることを必要とされます。もちろん「ただ気にせず触ってりゃいい」のとも違います。その環境とそこにいて触れる自分と触れられる相手とを「ひとつの知覚フィールド」として広げて見続けている(受け入れて感覚的に観察しつづけている)ように、そして、感じられてくることを追跡も判断もしないで「観ている」ように、ということのようです。そこに集中、固着しているのとはちがうけれど、手をとおして観察している。

「手技」ではあるのだけれど、いわゆる「手技」の技術-手で触れることによるアプローチのテクニック-というよりもう少し違った質のありかたや、態度みたいなものが大事なもののような印象です。侵襲してしまうことなくひたすら「待って」、空気の層をとおして「聴いている」ような。それによってふっと向こう側から窓があいてくるのを待つような触れ方の質、ありかたの質のようなものが問われるような「手技」なのかもしれません。

実際は結構むずかしく、ごく軽く触れているつもりでも、触れる場所が頭部であるだけに、「押さえられている」ようにパートナーに感じられて苦しかったり圧迫感が感じられたりします。指先で「点」で触れると、圧をかけていなくても、少し「入ってこようとされている」というような感覚に受け手には感じられてしまいやすいよう。軽くふれてるつもりでもパートナーに指摘されて気付く。触れてはいるのだけど、触れる指と触れられているあいてのからだのあいだにあるspaceはふっと包んでおいておくようなそんな感じをとらえられたらいいのかもしれない。触れられていても、普段の生活のなかで寝た状態でずっと頭に触れらているという体験はあまりないので(さらに「どんな感じなんだろう」と意識をそちらに向けてしまっていたこともあって)どうしても触れられている接触部に注意がいってしまいリラックスしているつもりが「気があがる」感じになってしまっていたところもあったように思います。きっと受け手のほうも「そこ」に集中しすぎないで体におきていることを隣で観察しているような開き方のほうがいいんだろうなと、あとから振り返ると思います。

手で触れて落ち着いてくると、手をとおして波のような感触が感じられます。ゆっくりだったり少し速いように思えるものだったり、変化して・・。でもそれが、脈が皮膚をとおして感じられるものなのか呼吸の動きが皮膚をとおしてつたわってくるものなのか、クラニオでチューニングをしようとしている"motion"のようなものなのかはよくわからず。とにかく手に集中しすぎないで感触を見ていられるように、「狭く」ならないようにと注意して。頭部にふれているときよりも、仙骨に触れているときのほうが(パートナーの体側に位置しているせいもあるかもしれないけれど)注意は「向き合い」すぎずにいれるように思います。自分が触れられているときはその最中はよくわからないけれど、おきてみると、仙骨がなにか少し「コンパクト」にまとまって軽くなっておさまるような感じがあり、それは翌日にもつながりそこから腰椎と仙骨の間あたりが軽く拡がっていくような感じがあったりと続いて・・。

参加者同士のシェアリングをしてみると、結構受けていて感じていることはみな違う。「流れみたいなものが足の方に流れていく」という感じを話していた人もいたし、頭部に触れられているときに「頭頂に指を触れられているよう」に感じて「そこはちょっと・・」と伝えたら、実際には施術側は頭頂には触れてはなかった(笑)ということもあって(施術側の人が手をとおしてパートナーの頭部に気持ちを置きすぎたのかもしれません。それが気配として"触られている"という感覚になったのかも)。時間がなくて(というか感覚がひらかれるための時間を大事にするワークでもあるので時間はかかるべきものなのですが)その日は一人の相手との交換セッションしかできなかったので、同じ日にパートナーチェンジもしてやってみることができたら受け手、触れる側の両方としてまたいろんな感覚、違いが感じられて面白そうです。

エサレンボディワーカー、kazuhaさんのブログです。

クラニオ・プラクティショナー、加藤佳江子(komalagita)さんのHPです。

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March 19, 2006

触れることと触れられること

ワークのなかでお互い役割を交代しながらゆるめあうようなことをやります。足で踏むマッサージのようなことや、重さを感じ合うこと、先の記事のような「背骨の遊泳」のようなこと・・。受け手側とアプローチする側と双方をなんどかやっていくと、パートナーのこのようなことへの「慣れ」というような側面もかなりあるけれど、それだけにとどまらず、そのひとの「触れること」への気持ちのおきかたのようなものが触れ方をとおして感じられる、見えてくるように感じられます。また、受けているときの自分のチャンネルの状態もすこしづづですが観察できるようになってくるように思います。また、他の人同士がやっているのを見ているときにどんな感じでそのひとたちが受け、アプローチをしているのかを感じることにもフィードバックがおきてくるように思います。からだの置き方(position)の選び方や触れるときの気配や質感に注意がいくようになってきます。
「ほんとは触れる相手のからだを気にかけているのかな」というようなことに、触れられる質感をとおしてアンテナが向いてしまいます。(もちろんこちらが間違ってフィルターをかけてることもあるかもしれません)
ゆるめ合うというようなひとつひとつの「やっていること」も大事なのですが、実はそれよりも触れること、触れられることをとおして感じることひとつひとつのほうがなにかベーシックなもののように思います。触れられるときに感じることは自分に触れている人のことであるだけでなく、自分が「触れること」へと照らされるし、自分が相手に触れてうける感覚、感触は自分はどうかなということに照らしかえされる。「触れること/触れられること(から照らしかえされること)のワーク」のようなことがうまくできたらと思います。

そのようなことを考えたりしているなかで「とけあい動作法」というものがあるのを知りました。文教大学の今野義孝さんを中心に、心理援助などの分野で展開されているもののようです。手を相手にふれている状態で「ピター」と心地よく押して圧をかけ、「フワー」と緩めるというもの。緩めるときに手を離すのではなく、手のひらは相手に軽く触れたままで「押して緩める」ようです。自分で自分に実験してみるとわかるけれど「軽く触れている状態でありつつ押して緩める」というところがミソのよう。「ピター」というイメージのように、押すというよりは「着いていく」という感じかもしれない。双方の皮膚の間のクッション感覚(?)が混ざり合うような圧感触かもしれません。「フワー」のときはそれが膨らみ感をともない引いていくような。
詳しくは今野義孝著「とけあい動作法」(学苑社刊)を。

tokeai

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March 05, 2006

感覚地図帳(ヨガ編)

ヨガをしているなかで。

1)花輪のポーズか、変形か、しゃがんでやるポーズをしているときにふっと胸骨上部(胸骨柄)のあたりを放してみる。
しゃがんでいるなかで「からだの重さ感」がずんと降りて、骨盤底のあたりがふくらむように拡がっていくような感覚が起きる。皮膚の中でなにかすべりおりていくような感じ。

2)ヴリクシャ・アーサナ(木のポーズ)のなかでのイメージ。「ポジションをキープしながらバランスをとろう」とするでのはなく、「みぞおちから腹部の中がゆらゆらした揺れる水でその中に気泡があって、その気泡がおきているバランスの変化に合わせて中でうごいて微細に調整している」ような。たとえて言うと、みぞおちから腹部の中が一つのおおきいゆらゆらした細胞のようなイメージかもしれません。
「バランスをとろう」というつもりのときとくらべて静かさ、おだやかさ、呼吸の感じなどが別物のようにおさまるような感じがします。

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December 20, 2005

泳ぐ背骨

先日のワークでの中で。

二人組で、正座して。一人が後ろでサポート。
1.尾骨から頭まで、背骨をふれてもらい、その触れてもらっている部位を中心に背骨を動かしていく。先の記事(地図帳脊椎編)のはその部位だけを微細に動かして確かめていく感じなのだけれど、今回のはもっと「おおきく」。触れられているところから大きく背骨をからだの中を泳がせるように動かしていく。背骨のその部分が大きく開いたり伸びたりしながら・・・。背骨がからだの中で触れられているところから龍みたいにうねるような。尾骨から頭までの間で小さくしかうごけないところもあるけれどその揺れる感覚を丁寧に追って、感じて。

2.基本的に同じなのだけれど、サポートする側が触れているだけでなく、背骨に触れながら相手のからだの中に波を送るような感じで押して、からだの中に動きの波を伝える。動かす側はその波を受けつつ自分でも動かしていく。おきている感覚の観察。「自分からの動き」を抑えて、思い切り相手のくれる波に受動的になってみるというのもあるかも。

背骨の、触れてもらっているところだけでなく、頭と尾骨・仙骨と(両先端ですね)の三点を同時に意識していると、そのポイントだけ意識しているのより動き、感覚が流れているのが感じられるように思います。

読んでいるもの

霜山徳爾著「素足の心理療法」(みすず書房刊)

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November 26, 2005

感覚地図帳(脊椎編)

頭の方から、背骨のあいだの間接をひとつずつ降りながら動かしていく。

左右に回してみたり、前後に倒してみたり。左右に傾けて間接のあいだをひろげてみたり。

回しやすいところ、傾けやすいところ、動きにくいところ。

背骨の間にあるスペースを感じて。そのスペースがすこし広がったりのびたりという変化を感じて。想像して。

背骨のひとつずつの間をストレッチしてみたり、そして脱力してみたり。

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November 23, 2005

感覚地図帳(口唇編)

顎間接に力をいれてしまって固めている、ということは割とあるのではないかと思うのですが、そのあたりからいろいろ「こういうこともあるかも・・」と想像していて、「口唇の中をゆるめる」、「口唇の中を重力にゆだねる」という感覚もあるなあと感じています。

「口唇の中をゆるめる」といっても口の中をゆるめるとか「口がゆるんで半開き」とかいうのではなくてーもちろん口蓋の内側の皮膚をゆるめてみるという感覚もありますがー「上下の口唇そのものの中の力をふっと抜いてみる」という感じです。こんな、柔らかいイメージの部位でも、(決して力んだり固めたりしているわけではないけれど)どこか中を締めてしまっているようなこともあって、意識してみることによってゆるみ、首や肩の感触もすっと変化するのが感じられたりします。

読んだもの、読んでいるもの

「ドリームワーク」ロバート・ボスナック著(金剛出版)
 夢を素材にしてそれを「半夢見状態」で(夢の中の様々な登場者のからだに自分を重ねていくことによるなどして)体験しなおしていく・・・といったアプローチによる心理療法ワークのようです。Embodied Dreamwork。著者はユング派の心理療法家です。 
 
「べてるの家の当事者研究」(医学書院)
 浦河べてるの家での、統合失調症その他の当事者の人たちによる病気、現況、生活研究。
 
「いのち-生命科学に言葉はあるか-」(文春新書)
 最相葉月さんによる生命科学、生命倫理に関わる様々な人との対話。

「訪問看護の技術-在宅ケアを支える看護の理論と実際-」(現代社白鳳選書)
 日野原重明、荻野文著
 聖路加国際病院での訪問看護の経験、実際からの対話、さまざまなこと。

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November 21, 2005

感覚地図帳(浮遊肋骨編)

浮遊肋骨(いちばん下の二本の肋骨、胸郭の前側まではつながっていないで浮いている)が遊べるように。

知らずに浮遊肋骨を固めてしまっていたりするので、からだの表の層から離してあげるように。そこが「浮遊」していて離れてうごくから、呼吸するときに胸郭やお腹のスペースが拡がったり閉じたりと動くことができるような感覚。
また、腎臓は浮遊肋骨の「籠」にまもられてある(「尿」をつくるという臓器というイメージがあるけれど、実は腎臓はからだの中の位置としてはそんなに低くないところにある)という感覚を(体内の気配を、)想像してみる。
呼吸による動きをブロックすることのない、左右にある腎臓が「楽に」それ自身の重さ、暖かさをたもっていられるような、そんな存在としての浮遊肋骨の感覚を探ってみるように。

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October 27, 2005

お腹の時間・胸の時間・足の時間

10/24に、室野井洋子さん(ダンス)、西村卓也さん(ベース)の会を見に行く。そのときの室野井さんの動き、からだをみていて自分のなかにおきてきたこと、気づいたことを。

室野井さんの動きの感覚的印象が、胸部、手足が動いても、腹部はとても静かな印象でそこにいるという感じなのが見えてきて面白い。室野井さんというひとりの踊り手、からだのなかで足、胸部、お腹がそれぞれ別の時間感覚(たたずみ方、動きの自律時間感覚、呼吸感覚?)をもって「いる」ような感じを受けたというような感覚か・・(それぞれが「バラバラ」で、という意味ではありませんが。)足はからだ、動きについていきハコバレて、胸、手足は動きにつらなり、お腹はそれらを静かに見守りつつ軽くささえてもいるとでもいうような感じを思いました。それぞれが同時にちがった生理、息づかいで、時間を呼吸してとらえて動いているような、それぞれに別の時間を生きさせているんだなというような感じで「!〜」と、驚き、面白く。
自分でもそういう感触ってできるかなと思っていろいろやってみると、感覚的にはほのかに見えるものがあります。「静かな時間」を腹部では追い続けてうごいてみるという感覚。

 室野井洋子さんのホームページです。


グルジェフとド・ハートマンによるピアノ曲集というのを聞いています。グルジェフがムーブメントの伴奏用の音楽を作曲家のド・ハートマンと作っていたというのを知らなかったので(無知ですね)驚きでしたが。これは輸入盤で作曲者ド・ハートマン自身のピアノ演奏によるもの。今は他の演奏者による日本盤もいくつか出ているようです。

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September 04, 2005

背骨の後ろの空間/脚の間(自分の居場所を移す)

ほぼ一月ぶりの更新になってしまいました。

背骨の後ろ側、背骨と背中の間にある空間を感じての呼吸。
背骨と背中を貼り付けてしまっていたりするので、そのあいだに「空間」があることを意識して感じる。
首から仙骨まで、意識してひとつひとつ開けるように、その空間を感じてみる。
同じように胸骨と胸の皮膚の間にも空間があって、その空間を開けて感じてみる。
その前後の空間を感じてみると、胴体全体が自然に使われるような感じで呼吸が起きている感じに気づきます。

もうひとつ。

ヨガの中で行う「ラウンジ」をしていて、自分の「居場所」がどうしても前足の方に行ってしまうのに気づく。(前足のポジションを意識するポーズだということもあるかもしれないけれど)。
そのラウンジのポーズ、ポジションがとれたあと、前足のほうに行ってしまっている自分の「居場所」を骨盤のなか(というか、おへそより下のお腹のなか)へうつしておとすような感じを持つとそのポーズをしている中での感覚が変わっていく。中心のほうのくっついていたものがはがれたりひろがったりしながら、内側が少し広くなっていくような。

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August 06, 2005

Hands On

先日のワークのなかでの感覚。

マッサージではないのだけれど、「触れて緩める」というようなことをしていて。

横になっているパートナーの気になるところに触れていく。「このへん」と言ってもらったり、また自分が受ける「カン」というか印象で。

触れている場所を圧したりほぐしたりというような感じではなく、触れて「なんとなく(笑)」相手のからだの様子を感じてとらえてみようとします。そうしたら同時に自分のからだのほうの「その場所」のなかに感覚の注意をシフトしてみます。「相手のからだから受けているなにかによって自分のからだのほうがどう『うごきたがっている』かしら」というのを聴こうとしてみるという感じかもしれません。注意を向けていると自分のからだのその場所あたりの「なかのうごきだしている感覚」が感じられるように思います(きっと気のせいではないと思うのですが)。そうしたらその「なかの動き感覚」を、触れている自分の手と相手のからだとのあいだにつくるような感覚をもってみます。皮膚面と皮膚面のあいだに、というよりはもう少し内側までつながった感じで。こちらの掌で「動かそう」とはせずに(もちろん感覚を追ってうごかしているし、軽い圧感もあるのけれど・・・)。

自分の手と相手のからだの触れているところ、自分のからだの方のそのパートのなか、そして相手のそのパートのなか(実際に触れているところよりは内側の)・・とが同時に動いて質が重なっていくような。自分のほうもその「なかのうごき」で緩んでいくような感じもあります。

「気」とか「つもり」というよりはもうちょっと具体的な感触のような気もするのですがどうなんでしょうね。

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July 17, 2005

軸を残して息に捨てる

「軸を残して息に捨てる」などというと、とてもかっこいいことに聞こえますが、全然そうではないのですが・・。

ヨガのレッスンのなかで、ポーズをkeepしながら呼吸を続けていったりということをします。ポーズを保つなかで吸う息でからだの中が拡がり、(内面張力?で伸び・・)吐くときにからだの中が沈みゆるみおりていく、というような感覚になっているような気がします。その「沈みゆるみおりていく」ときに、自分のありよう、感じ方、変化、気持ちのうごき等々に添うように観察、というか「みている」のが面白いです。からだは簡単に柔らかくなったりという「変化」はするわけではないけれど、そこでいろいろな「動き」や「変化」が「うごいて」いるのは感じ取れる・・・・。息を吐いているときにかたちをキープしているもの自体は保つけれど「自分のコントロールを放していく」(コントロールしよう、とすることを放すこと・・かもしれません)と言う感じなんだろうと思います。

たとえばそのときにコントロールをはずしつつ、(このあたりから自分のワーク側へつなげてみようとすると)でも、「そのときに『からだのここ』をずっと感じていて!」というように意識をつないでおくことはからだの実感を味わうときにおもしろいのではないのかなと思います。腎臓に意識をもっていってみつめていたときと、心臓に意識をもっていってみつめていたときと、下腹部のうちの腸というまとまりを意識してみつめていたときと、きっとそこで感じること、浮かんでくることは違うはずで。

読んだもの
梨木香歩著「裏庭」(新潮文庫):「からくりからくさ」を読んで以来、勝手にどこか信をあずけて読んでいるのですが、「裏庭」も・・・。

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July 03, 2005

クリパル・ヨガ

「自分のからだからはみ出さない」ことや「つながり感覚」、「グラウンディング」といったものをとらえなおしてみたいと思いヨガに通い始めています。今は「ヨガ・ブーム」らしくいろんな名前のヨガが沢山あります。「パワー・ヨガ」とか・・。「ハタ・ヨガ」、「クンダリニー・ヨガ」という分類くらいは知識として少しあったものの、「パワー」ってなんだろう(笑)とか、不思議な感じもします。

雑誌、ホームページなどいろいろ調べてみて「クリパル・ヨガ」というものをやっているスタジオに行ってみることに。「動き」や「ポーズ」をできるようにするというようなことというより、ヨガをとおして自分の今のありようにからだをとおして気づき、「そこ」に呼吸をとおして入っていくことによってまた、「自分のからだ、ありようがすこしづつはじまっていく」というような志向のヨガのように感じます。「体操」のような感じとも「求道」というのともまた少し違う(といっても私は他のヨガをしたことがないので知りませんが)気配です。

クリパル・ヨガスタジオ主宰の三浦徒志郎さんの「クリパル・ヨガ実践編」「ヨガ・ポーズ入門」、斉藤千代子さんの「クリパル・ヨガ実践編」のクラスをいままでに。呼吸を丁寧に体感しながら、自分のからだの重さや、中の変化に自分を委ねて観察、味わっていくことによって、また、ひとつひとつのポーズ、動きのあいだに起こっている感覚、状態のうつりかわりのうちにたちどまりつついることから、「?」というようなからだのなかのひろがりがおきてくる感じにつながるときがあります。

自分のからだの中に呼吸がとおっているというような感じから、ふっと呼吸の波というか呼吸のなかに自分がいるような感覚になったり、胸が左右まんなかと三つにすっと分かれた感覚になった瞬間に呼吸と股関節、足がつながった感じが起こったりします。

自分にとってのなにかベーシックのもののひとつになるかもしれないという予感があります。

クリパル・ヨガスタジオのホームページです

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June 19, 2005

「普通」について

以前、「普通」「隣」「抱え」というタイトルで記事を書いたことがあります。私にとってはこの三つはそれぞれ微妙につながりあいつつ隣り合っているようなそのようなものなのかもしれません。「隣」と「普通」は自分のソロダンス・パフォーマンスのタイトルにも使っています。今現在進行形のシリーズタイトルが「普通」です。

踊り、パフォーマーのありようというところに即したことでいえば「普通」ということばをとても意識、考え始めたきっかけはある舞踊グループに2年ちかく参加していたときでした。主宰、演出家が「もっと普通でいいんだ」とか「普通でいろよ」とか「それは普通じゃないだろう」と稽古のさい声をかけます。彼の言う「普通」はいわゆる「Normal」ということではなくて、「舞台という特異的な空間、時間、場所においてそこでの『普通』が成立、流れて関係が動いていくための、パフォーマーにとっての要請されるありかた」というようなものだったように思います。「舞台の上での『普通』ということ」。舞台のうえで展開されていることがいわゆる普通でないことであればその存在を普通のこととして舞台上であれるありよう、ということかもしれません。
その「普通」ということにたいするとらえかたは自分にとって、ある契機でもあったように思います。「舞台上である生き方をしている存在にとってのそのものとしての存在意義」ということなのではないかと思います。そこでの見ている側にとっての「確かさ」というような。

今、自分がタイトル含め「普通」といっているときの意味合いはまたすこしちがうものになっています。うまく伝わらない言い方なのかもしれませんが、雑に言うと、「これでも普通だ」というような、そんなところに「普通」ということばを引っ張ってきたいような思いがあります。
いわゆる「Normalさ」という意味での「普通」ではなくて、それぞれの存在、その人にとっての「普通でありうること」を「普通」としてあれること、という感じなのではないかと思います。もちろんこれは自分の思いと言葉の話(そして、言葉の流通についての話でもあるけれど)なので、好き勝手な、適当な机上の話みたいになっているかもしれないけれど。

私の中にはほとんど人に話したくないもの、みせたくない(でもかい間見せてしまっているかもしれない?)ものもあります。みとめたくないけれどでも事実そうだろうという部分もあります。そのような、ある意味Mind-Bodyのあいだの深みのあいだまでいかなくても、感覚的志向のような部分でもいわゆる「Nomal」さにはおさめられない欲求とかあるのかもしれません。

「Normal」ということではなくて、「Ordinary」というイメージでの「普通」なのかもしれません。「普通」からはじまるというか「普通」としてはじまっていくよりないというか。普通ということばはどうしても「規範としてのもの」という匂いからはなれづらいけれど、もっと個々の皮膚の内側の匂いにちかいようなそれぞれにとってのそこからはじまる「普通」を思いたいです。

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June 16, 2005

歩む人波の密度

大阪に一泊二日で行って来ました。物心つく前に少しの間住んでいたことがあるらしいのだけど、全く覚えていないので、初めて(?)の大阪。9月に予定して動き出している公演の会場、大阪造形センターの中にあるフリースペース「カラビンカ」を見に、です。大阪在住の踊り手、宮下倫彦さんが東京の数人の踊り手に声をかけての企画です。

大阪駅、梅田駅から徒歩すぐの場所で、隣を高架の電車が走るので、ビルの反射もあるのでしょう、不思議な音感で電車の音が風のように入り込んできます。場内は黒色で、中央が凹んだ台形という妙なつくりのスペース。以前ビデオをみて想像していたのより「硬さ」のないような空間。

駅の中や路上を歩いていて「からだが慣れない」というか「?!」という感触だったのは、歩いている人たちの「間の詰まり方(?)」というか「歩いているからだどうしのあいだの距離感覚」が近いというか詰まっているような感じだったこと。人波の質が違うのです。歩く速さが速いというのとはまた違うのですが。人が多いというのとも違う、人波を歩く速さと人の絡み方の距離感の質なんだと思います。こちらの体に入っている感覚で人波の流れにのろうとするとなぜかぶつかりそうになってしまう・・・。
「急いで歩いて登るひとのためにエスカレーターのどちら側を空けておくか」というのも違いました。東京では左に立って右を空けるのが暗黙の了解(?)になっていると思うのだけれど、大阪では左を空けておくのだそうです。阪急電車の小豆色の車体も絶対東京の私鉄はしないよなあ、という色あいで・・。

二日目はこちらも初めての神戸に。本で読んでいたパルモア病院(以前記事にもかいたことがありますが)に行ってみたくて。元町駅からすぐ、坂をのぼったところ、なんと幼稚園の向かいに建っていました。もっと大病院のようなイメージで想像していたのですが病院らしからぬ(四面の角ばった棟のような病院の気配からは遠く)威圧感のないたたずまいでした。つくられた方の思い、ありかたというのはきっとこういうところにもあらわれているのだなと。
病院の前に、赤ちゃんを抱く母親や腕に幼児をぶら下げている父親の彫刻があり、玄関のうちには頭を下にした赤ちゃん(ということは胎児?)の像がしずかにあって。人の気持ちと空気を「まとめて」(うまい言い方がないのですが)いるように感じました。

あるくと町なかに華僑の教会、ムスリムのモスク、シナゴーグ、ジャイナ教寺院、が違和感無く家並みに混ざり、山が間近に町につづいて。町を歩いていても(観光の人もいるせいか)大阪で感じたような「人波の歩みの感覚」は神戸では感じず、でした。電車で30〜40分くらいの距離なのに・・・。

読んだもの
「語りかける身体-看護ケアの現象学-」西村ユミ著(ゆみる出版)

「植物状態」とされる患者さんとの「あいだ」で看護婦たちが感じている「つながり」の実感のこと・・。相互のベクトルと感じられる「なにか」のこと。

katarikake

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