September 11, 2007

わたしのからだをさがして

協同医書出版社刊の「わたしのからだをさがして」-リハビリテーションでみつけたこと-という本を読んでいます。片麻痺のクライエントのかたとリハビリの療法士のかたとのあいだのメールでの往復書簡です。

リハビリテーションというと、からだを動かして、物理的に機能回復を促すものだというイメージを漠然ともっていたのだけれど、ここで描かれている作業、やりとり、体験の過程はそのようなイメージとはだいぶ異なっていて、もっと、「自分のからだがいまそこでしていること」「自分のからだがいまそこでとっていること」、そして、「そのからだを自分はいま(そして、いままで・・・)どのように感じ取っていたり、イメージしているのか」ということを丁寧に発見しなおしながら、じぶんのからだ(と、じぶんのからだのとっていることに)に会いなおしていくという感じに近いような感じがしました。

ゆるんだ、力の抜けた身体は、一般的には「しっくりくる」「放たれた」イメージがあるように思われるけれど、でも、実際の体験、体感覚としては、固めていたりというときのほうが、「しっくり」きたり、落ち着いていたり、不安ではない実感があったりすることもあります。バランスがとれていないように見えることも、実はバランスがとれてあるように必要なものとして選びとられていたりすることもあるんだと思います。ここでのクライエントの小川さんの感じていることというのは、細かく振り返ると自分のからだのうえにもあることのように思います。ほとんど自分のことを書いてあるみたい・・・(もちろんちがうわけだけれど)という共感?で読んでいます。

実は、そのリハビリテーションの場での対話のやりとりではなくて、往復書簡であることが、とても深いものにしている気がします。体験したこと、感じたことを持ち帰って、感じ直したり考えたり。それぞれが自分と向き合ったり・・・。そこからもういちど言葉にして、自分の感じ直したことを伝える・・・。そのインターバルの時間のあいだに感じていることがとてもこの本に大事なものとして流れているような感じがします。


Watasinokarada
「わたしのからだをさがして」-リハビリテーションでみつけたこと-小川奈々・中里留美子著
協同医書出版社刊


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February 19, 2006

老いを生きる、老いに学ぶこころ

先の記事で紹介した本です。

日本臨床心理士会高齢者支援委員会の活動のうちから、村瀬嘉代子さんの発案がきっかけになって生まれた本です。
編者の師、知人、友人e.t.c.の様々な地域、領域の人たちに「『心に残る高齢者』や『年齢を重ねること』についての経験や思いを伺いたい」「輝かしい日々をお過ごしの方にも影があり、病気と折り合いをつけながらお暮らしの方にも光はある・・・そんなあたりまえの事実に光をあてたい」という趣旨、思いで執筆の依頼をされたとまえがきにあります。精神科医、臨床心理士といったフィールドの方々をはじめとして、小学生、中学生、マサイの長老(?)退職後に世代間交流のボランティアをはじめた方・・・、様々な人たちが原稿を、「自分にとっての出会い」を言葉にされています。

実はチャリティー本なのだそうで、この本の印税はすべて震災・水害等で不自由な生活を余儀なくされている地域の高齢者施設。期間に寄付されるそうです。

村瀬嘉代子・黒川由紀子編(創元社刊)「老いを生きる、老いに学ぶこころ」

oiwoikiru

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February 14, 2006

本を三冊

スケジュール以外の久しぶりの更新ですが、本の紹介です。

 霜山徳爾「素足の心理療法」(みすず書房)

 村瀬嘉代子「聴覚障害者への統合的アプローチ」(日本評論社)
 
 村瀬嘉代子・黒川由紀子編「老いを生きる、老いに学ぶこころ」(創元社)

臨床心理療法のものばかりですが。

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December 05, 2005

中井久夫さんの新しい本

精神科医の中井久夫さんの新しい本、エッセイ集「関与と観察」を読みはじめています。

といってもほんとに読み始めたばかりなのですが、冒頭の講演「精神医学および犯罪学からみた戦争と平和」に両面いろいろ考えさせられます。

 人間と普通はそうそう人を殺せないようで、マインドコントロールの極到である催眠術をもってしても「人を殺せ」という催眠はかけられない。間接的にたとえば「車のネジを外せ」というような暗示によって殺人をした例しかありません・・

といったことや「発砲率」(実際に敵と対面したときに何パーセントの兵士が敵に向かって(狙って)銃を撃っているか)についての記述とか(とはいえ、発砲率は特殊な教育訓練で心の底のブレーキをはずしていく研究、実践もされているのですが)。


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October 05, 2005

子どものスクィグル

また、というかここ最近いつも間があいての更新になってしまっています。

本の紹介です。

白川佳代子著 誠信書房刊「子どものスクィグル-ウィニコットと遊び-」

小児科医の著者による治療現場のなかでの「スクィグル」の紹介のような本です。絵、というか描線のやりとりによって「絵」を一緒にあらわしていくこと、ことば、ものがたりのやりとりも重ねて。
実況中継(?)のような、本です。そのやりとりの中で、「間の」空気がひらけるのが感じられるような本です。

もうひとつ、まだ読み出したばかりですが、

長谷川まゆ帆著 岩波書店刊「お産椅子への旅-ものと身体の歴史人類学」

ルネサンスから19世紀にかけての西洋でつかわれていた(現在はつかわれていないそうですが)「お産椅子」「分娩椅子」についての文化史、身体史というような本のようです。

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June 24, 2005

不確かさの中を

精神科医、神田橋條治さんと心理臨床家、滝口俊子さんの対話「不確かさの中を」(創元社)を読み返しています。一番最初に読んだ神田橋さんの本がこの本でした。

「治療する・される関係には、まあいろいろ起こるんだけど、患者にとっては。自分が治療者をサポートできたとか、治療者の役に立ったとか感じることが、すごいサポートになるんだよね。それは、お手伝いをしている子供に、ちょっと似ている。それが自我感情をふくらませるんだよね。そういう思いを患者にさせることで患者を支える段階だと、これは、治療の技術です。対話精神療法は、そこより先を目指してる。それぞれ別の背景や資質を持っている者同士が話し合うと、両方とも利益を得るでしょう。そんなふうに、両党ともが利益を得て、同時に相手に寄与し得たという体験によって両方ともが支えられる、そういうものを目指している」(神田橋)

どのようなこと、かかわりが人の自然治癒力をひきおこしていくのだろうかということ、そのかかわりのためにどのようにクライエントを「観察」していき、かかわるのか。「踊ること」や「からだをみること」にとてもつながるものとしてうけとめることができます。

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May 24, 2005

「共に」(癌と心理療法)

内科医の岸本寛史(のりふみ)さんの「癌と心理療法」(誠信書房)という本を読んでいます。題名から想像しがちなような「癌にこれだけ心理療法が効果があります」といったような本ではありません。心理療法によって医学的な意味で癌を「治療」したり「延命」を図るのが目的ではないと書かれています。

癌患者さんは感覚が張りつめ鋭敏になってその世界のあらわれかたは「異界」のように感じられ、その「異界」たいしての認識もなしに不用意に日常的な意識で接してしまうと思いがけないところで行き違いが生じこころが離れてしまうことになりかねないと、岸本さんは言います。患者さんの一言に対する治療者の聞き方ひとつで関係が深まったり切れたりすると。(患者さんがそのひとの「いること」を抱えられているか、離されているかと感じ取っているかは、感じている「体験」のうえでは大きいことなのだと思います。)また、「異界」にいる患者さんと共にいるためには治療者側に相当の覚悟と意識の水準の変換が要求されるとも書いています。

「癌患者さんに心理療法をする」のではなく「癌患者さんに心理療法的に接する」こと。話されることばや身体的な所見だけでなく、描かれた画や見た夢といったものにあらわれでているように感じられる無意識や「なかのちから」のようなものに耳を(いることを?)傾けていくことからのかかわり。そのかかわりは岸本さん自身にも目をむけさせ、変わり、試され・・という体験でもあって。

kishimoto

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May 15, 2005

「春になったら苺を摘みに」

ある人の本を読み自分のどこかに強く響くところがあるとそのあと何冊か、そのひとの本を読み続けてしまいます。先の記事にもすこし書いたのですが、今は梨木香歩さん。「りかさん」でどこかひっかかり、その次に読んだ「からくりからくさ」で基本的ななにかを信じた(?)風が吹いたように感じてからは、もっぱら彼女のものを読み続けています。小説作品だけではなくエッセイも。「ぐるりのこと」を読み、2002年刊の「春になったら苺を摘みに」を読み終えたところです。

もう何年も前のことだけれど、TVで題材をあたえられ、それについて賛成か反対かに組分けされて討論する番組がありました。記憶違いもあるかもしれないのですが、当人の実際の考えとは関係なく便宜上の組分けに合わせた意見で相手方を討論で言い負かす、というようなものだったような。とても嫌いだったのを覚えています。自分がどう感じているか、ということと関係なく、言い負かしてあいてに勝つことのために組織されている討論、会話。(これからの裁判制度のことなども少し思ったりしますが・・・。)

「ディベイトという名のスポーツを私は信じない」ということばを『春になったら苺を摘みに』のなかに読んでとてもうなずくものがありました。

また、もうひとつ。「理解はできないが受け容れる。ということを観念上のものだけにしない、ということ」も。あたまではそのつもりになりやすいけれど。

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April 21, 2005

心のうえのこと(オウムと私・林郁夫著)

先の記事を書いてからまた大分間があいてしまいました。

前の記事に書いた早川紀代秀さんの本を読んでから続けて、というか続けざるを得ないような感じで、村上春樹によるインタビュー「約束された場所で」(文春文庫)と林郁夫さんによる「オウムと私」(文春文庫)を読んでいます。「約束された場所で」は元信徒、出家者の人たちへのインタビューに村上春樹、河合隼雄両氏の間の二つの対談が加えられたものです。(この対談もとても考えさせるものです。)

「約束された場所で」を読むと、幹部(といってもステージにや役割によってどこまで様々なことを知る立場にあったかは様々なようです)、普通の出家者との間の意識、感覚の違いなども見えてきます。また「ふつうの」出家者の視点からの当時のオウムの内側の気配なども感じられます。私とほとんど同じ年齢、世代の人たちもインタビューされていたりして、いろいろ思うところもあります。

どこか「自分はこの外側のゆがみをもった社会に染まらないで純粋にいたい」というような心象、志向や、それと重なっての「社会を純粋なよい方向に、修行や超能力を得ることでかえていきたい」というような志向、傾向がおおまかにいうとどこか流れているようにも思います。そして、ノストラダムスの予言などのような「近く世界は破滅してしまう」というような終末論傾向も流れている傾向もあるような気がします。そして裏返しの、どこか「選ばれた者」的な選民思想のような差別化も・・。そして、また、そのような終末論や、世界の仕組みや、自分の存在と世界のつながりを「きれいに」、「すっきりと」説明できる法則を求めているような傾向もあるように思います。そのような「法則」としてオウムの書籍や教義に出会った人たちも多いのかもしれません。

私には全く超能力を手に入れたいとか、ノストラダムスの予言に本心からおろおろするといった志向がないのだけれど、もしそういう傾向があって何かでオウムのことを知ったらひょっとしたら引きつけられていたりすることもあったのかもしれないとも思います。近い部分や、わかる気もする部分、言葉の上としては「?」もありつつもそういうこともあるのか、と思える部分・・・もあります。決して遠いだけの人たちとしてはくくれないような気がします。

一つ思ったのは、「超能力を手にすることで、そして解脱することで本当の真の自分を」というのは決してオウムのような宗教にかぎらず、「こうすれば願ったことがなんでもかなう、成功する」といったうたい文句がつけられた啓発本やセミナーや心理書にも実はほとんど同じ構造のにおいがあるように思います。

林郁夫さんの本は、自身の医者の家での生まれ育ちから、宗教や修行にひかれていった経緯から始まり、阿含宗を経てオウム真理教に惹かれていく過程、そして教団のなかでのことなどを、そのときの「事実」だけでなく「彼のこころの中で幾重にもかさなりつつおきていたこと」を丹念に掘り起こし書きおこしている本です。そして振り返りながら自分で自分の心を「なぜそうだったのか」と検証しなおしていっている本でもあります。「心はひとつ」ではなくていくつも水面から浮き沈みするようにあって・・・。教団のなかでなにがあったのか、とか、どのように犯罪行為が、ということもあるけれど、それよりもそのなかでどのように感じ、葛藤し、揺れて、でも信じるもの、存在、世界観とのあいだでいくつかの事件(地下鉄事件もそのなかに入るけれど)を「踏んで」いくようになったのかを思わされます。

地下鉄サリン事件を実行する直前のときの心のこと、自分のことを省みて検証したあとの部分で彼は「私が述べてきたことは、客観的にいってしまえば、単なる『いいわけ』の心理ということになるのかと思いますが、敢えて私の立場を忘れていわせていただくなら、これを『いいわけ』といってしまうと、人の心の真実というものは、なに一つ成り立たないのではないかと、私は現在でも思っています。」(p.519)と書いています。「それ以外できないようにし向けられていたからしょうがなかったのだ」というようなことではなく、「そのとき私はこうやって思いやからだをなんとか『整理して』そのことへの最後の一線を踏んでしまい、またその『整理』の奥で動いていたことはこういうことだったのかもしれない」ということを自分や他の「その一線を踏んでしまった者」のためにも書きおかねばならないというような思いなのではないかと思います。

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April 08, 2005

「私にとってオウムとは何だったのか」

ここ数日読み続けていた本があります。早川紀代秀、川村邦光著「私にとってオウムとは何だったのか」(ポプラ社刊)です。

宗教学者川村邦光さんが、既知の弁護士(彼はオウム真理教の裁判で早川紀代秀被告の控訴審の弁護人をしているのですが)に請われ、証人尋問をしたことによって公判に関わったことをきっかけに生まれることになった本です。(裁判の状況としては現在控訴審では死刑判決が出ていて、最高裁に上告中です。)

本当は読んでもらえるのが一番いいことで、変な紹介などはしないほうがいいようなタイプのものなのかもしれませんが、この本の中で早川紀代秀さんは自分の生い立ちから、自分の惹かれてきた世界、世界観、志向等を省みることによって、自分がなぜオウム神仙の会に(それはとりもなおさず麻原彰晃というひとになぜひかれていったのかということにもなるのですが)惹かれていったのか自分を洗い出しています。また、ヨガサークル的な色合いを受けた「神仙の会」が途中から宗教色の強い団体「オウム真理教」になっていく過程、自身の出家への過程、そしてしだいに「ハルマゲドン」を防ぐためには、そして真理のためにはそれに反する人をポアによって「救って」もいいという(単純化して書いています。この辺りは本を実際に読んでいただけたらと思います。)志向になっていったのかを、実際にそこに惹かれ入会し、また内部でさまざまなことに手を染めてしまうこととなった者として、しかし、それを自分のことを検証しつつふりかえるものとして冷静に言葉に落としていかれています。

内側にいなかったもの、TVで選挙運動の様子(はりぼて人形が教祖の歌でおどっているような)などを見ての知識しかないものには「なんであんないんちきくさいのに・・」とか、思えてしまうのかもしれないけれど、ヨーガや瞑想を自己作業とすることで、なにか自己変革、変容をつかみたいと思い関わることになったものにとって、麻原彰晃という人(修行の先生)の導きによって身体感覚的な大きな変化や神秘体験(様々なビジョンや光を見るといったようなこと)を体験したり、「自分のなにかをこのひとに見通されている」ような体験などを経験すれば「そのひとの導きの力」を信じてしまうことも納得がいくように思います。それは、そのこと自体は「嘘」とか「いんちき」といったようなこととは次元のちがうできごととして関わったひとの身の上には刻まれる。もちろん、うそでもインチキでもないのだと思います。

オウムに関わったひとたちと自分たちとなにが違うか、かわらないのか。紙一重でちかいところにいるかもしれないしそこの一歩の踏み越えは「宗教にはいる」といったようなこととしてではなくても、いつ自分たちがその足を越えてしまうかわからないようなことかもしれないと思います。(組織と私、や私のなかの本当の私などとのことを考えればどこにでもそのような一歩はありえるように思います。)

半端に内容についていろいろ知った風なことを言うような本ではないように思います。保身や自己弁護のために書かれた言葉の本ではないように思います。まして、売れるため、話題のためをねらって作られた本でもないと思います。是非先入観(は消えないけれど)を消して、いろいろな人に読んでもらいたい本だと思います。自分とは関係ないとか、自分は大丈夫だ、とかいった目ではいるのではなく、自分や身近なひとにも感じうるできごととして耳を傾けて欲しいと思います。

 (早川紀代秀被告は坂本弁護士一家殺害事件、信徒田口修二さん殺害事件の実行犯の方です。)

 ほかに読んでいるもの
 
 小西聖子「犯罪被害者の心の傷」(白水社)
  東京医科歯科大学で「犯罪被害者相談室」でカウンセリングをしている精神科医、小西聖子さんの本。よむべき本だと思います。

 山中康裕「こころと精神のはざまで」(金剛出版)
  精神科医としてはじまり、ユング心理学系の心理臨床家としての活動もされてきた山中康裕さんの「そのはざまで感じてきたこと」のについてのことば。今私には山中さんのいくつかの本からうけているものはなにか大切なもののような感じがあります。

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April 03, 2005

「ハリール・ジブラーンの詩」

レバノン生まれの詩人ハリール・ジブラーンの詩を精神科医の神谷美恵子さんが訳し、詩編ごとに解説を付していく、といったスタイルで書かれた本です。
もともとはみすず書房刊の神谷美恵子著『うつわの歌』に所収されていたものですが、今は角川文庫版で「ハリール・ジブラーンの詩」のみ出ています。(『うつわの歌』は品切れ中だそうです)

1883年レバノンに生まれ、後にアメリカに住んだジブラーンはアラビア語だけでなく英語でも書いていたそうです。

澄みつつも強い凛とした言葉で、人の存在、自然のさまざまなものの存在について思いをめぐらし思索された詩。
小ささと、ひろがりとにつながる存在である人、人のいとなみのこと。

「病に」ではなく「そこに病める人」にひかれて医者になった神谷さんとの二人のあいだでの歌のやりとりのようにも思えることばです。

「立ちすがた」をおもわせるようなことば、詩だというようなイメージがうかびます。

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January 10, 2005

「少年期の心」(山中康裕著)

中井久夫さんからつながって何人かの精神科医、心理臨床家の方の本をずっと読み続けているわけですが、そのなかで、どんどん「自分にとって必要な本」、「しごと」に会っていっているように思います。山中康裕さんの本もそうです。山中さんは芸術療法、表現療法、箱庭療法(箱庭療法を日本に紹介育てられたのは河合隼雄さんだそうです)等をクライエントさんたちとの関わりの中で臨床、治療に取り入れ深く展開されてこられています。

「少年期の心-精神療法を通してみた影-」(中公新書)。1978年の初版からずっと版を重ねつづけています。

この本を読んでいて、箱庭に向いていく子供や手紙、絵を描くことに向かう子供たちの過程に触れて、自分のこどものころの「こころのエネルギー」というようなものの「イメージの弾み」みたいなものを思い出します。

ここに登場されているこどもたち(ひょっとしたら世代的には自分とかさなるくらいのひとたちかもしれない)の実際の生活のなかでの「うまくいかなさ」、「かかえきれずに『からだ』や『行動』に出口をみつけようとしないといれないエネルギー」を、彼らは診察室、治療室という「自由」と「秘密」が保証された「かかわり空間」のなかで、箱庭やその他の表現媒体、そこの中に(なにかに向けて)表すということのうちに自分の存在を「くぐらせる」(いい言葉がみつからないのですが・・)ことで、自分の生きづらさ、処理できていないこと、葛藤といったさまざまなことをもう一度自分のほうに受け止め、生きなおして、存在のうちにおさめていくように思います。子供たちはそこで外に適うように矯正されるのではなく、自分で「治って」いく。立てるように自分で生きなおしているように感じられます。とくにまだ小さい子供たちの箱庭の様子は、物語、イメージを自分で生きるような(きっと子供時代にみな感じていたことかもしれない)そして自分で自分をどこかへ準備していくような力みたいなものを感じます。(きっと読んだ人にも沸き上がってくるものとして・・)。

「症例報告」というよりもなにかほかのものとして、読んだ人のこどものころのイメージや感覚に響くものとしてとどくもののように思います。

いくつか、ひかれる言葉を引いて・・。

「私は精神療法家というものは、いわば傷つき悩むクライエントにとって最後の『自由』を守る空間と時間を保障する人間の一人なのだ、と思っています。この彼らの『自由』を守る空間と時間の保障、ということこそ、私の言う『専門性』の一つなのであり、彼らにとって、自らが立ち直っていくために、最も必要なことなのであって、ここには日常的な時間や空間との差が歴然と認められると言って過言ではありません。」

「夢はいつでも心の秘密の宝石です」

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December 20, 2004

「聴覚障害者の心理臨床」2

まだまだ読み中の、「聴覚障害者の心理臨床」です。

この本の中にはいくつも引かれる、そして、気づかされる文章があります。
河崎佳子さんの「聴こえる親と聴こえない子」もそのひとつです。

発達過程をふまえての「ことば」の大切さ、「人と関われる能力の発達」の大切さ。

『子供たちに、「あなたの自由な表現が待たれているのよ」「あなたの体験、あなたの考えを語ってちょうだい」「あなたの感じたことを伝えてほしいの」という期待を向けるときにこそ、ことばはいきいきとしたコミュニケーション手段として生まれてきます。』

「聴こえる」ということを「聴こえていない側」は体験していないし、「聴こえない」ということを「聴こえる側」も体験していない。どんなに違った体験をし、違った文化に生きているか、それを知って初めてきこえない人たちは健聴者に対して自分の「聴こえ」をどう説明し、理解にむけてどんな援助や協力がほしいのかを「ことば」にすることができるのでは・・・、というようなことを河崎さんは書いています。

この言葉を読んで、少し前にニキ・リンコさんと藤家寛子さんの対談集や、藤家さんの本を読んで触れた自閉症スペクトラムの人たちの感覚、生きづらさのようなところと重なるような気がしました。実際の障碍の質、内容はちがうけれど、健聴者、定型発達の人たちの身体感覚文化(適切な言葉か分かりませんが・・・)と異なった文化、体験文化のようなものがあって、お互いが他の文化の感覚を知らず、みんなこういう感じなのでは、と思ってしまっているものが互いのうちにあって・・・。そのかかわりのなかでは、「こう伝えたい」ということを思って「ことば」を出すということすら「保証」(それとみとめて存在を待ってもらえることでもあるかと思いますが)されていないような感覚になってしまうのではと思います。それは相互のコミュニケーションの問題でもあることなので、「聴こえない側」だけではなく「聴こえる側」の人にとっても関わりの中で同じように「うけとめられてない」という齟齬感はあるのでしょう。双方の側が「ちがい」の体験の質を受けとめあうことから、測りあうことがはじめられ、何かになっていく・・。そしてそのおおもとには、存在をみとめてもらえて、コミュニケートしようとしてうまれてこようとしているものが「かたち」になることができる「とき」を共有してもらえる「空間」=「空気」=「関係」のようなものが「肌合い」としてそこにあって・・・。

河崎さんの文章から、もうひとつ、です。ある意味シンプルでベーシックなことであるはずなのに振り返ってみたら?というようなことが書かれてあるように思います。

『私が手話講座に通い始めた時、初日の授業は「ジェスチャー・ゲーム」から始まりました。聴こえない人に何かを伝えようとする時、自然な行為は身体をコミュニケーション媒体として使うことです。そこから手話が生まれたのだということを、ジェスチャー・ゲームは教えてくれました。手の動きという「記号」を日本語の文章にのせるのではなく、伝えたいという思いを身体にのせて表現するのだという気づきは、その後、聴覚障害者の心理臨床を勧めてくるなかで、私にとって一つの基本理念になっています。私にとっての「ジェスチャー・ゲーム」のような体験こそ、子供の失聴年齢や失聴程度のいかんにかかわらず、母親に対してなされるべき援助の第一歩だと思うのです。』

このことは、決して「表現を身体にのせて」ということではなく、『「わたしのからだ」は今どういうふうにしてそこにいるの?』ということにもつながっていることのように思います。

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December 17, 2004

「聴覚障害者の心理臨床」

本当に久しぶりの更新になってしまいました。
12/3の宮崎祐子さんの国立音楽大学でのパフォーマンスへの参加、そして、12/6、7の木村由さん(ダンス)・長久保涼子さん(写真)とのコラボレーションの会。そして自分のワークや友人の公演の照明。平均睡眠3〜4時間のなかでとてもとても、という感じでした。

二つのパフォーマンスは自分のなかで新しい発見や、今の自分への様々な確認のときでもありました。いずれ書いてみたいと思います。

今、村瀬嘉代子さん編の「聴覚障害者の心理臨床」(日本評論社刊)を読んでいます。聴覚障害は「聞こえ」の障害であるだけではなく、なによりも「コミュニケーションの障害」としてたちあらわれてくるものだということを、実際の事例、試みの報告で気づかせてくれます。

「見えないことと聞こえないこと、どちらかの障害をなくせるとしたら、あなたはどちらを選びますか」と聞かれたヘレン・ケラーは即座に「聞こえないことを」と、答えたそうです。ヘレン・ケラーと同じような障害のある福島智さん(9歳で失明し、17歳の時に失聴された)という金沢大学の助教授の方は「・・・耳が聞こえなくなったあとは本当に独りぼっちになったような気がしました。・・・夕陽が見えないとか、星空が見えないとか、自動車が運転できないとか、そんなことはたいした問題じゃないんですよね。一番大事なのは、他の人とコミュニケーションできなくなったこと、それがものすごくつらい。逆に言うと他のすべてが絶たれてもコミュニケーションできるということ、話し相手がいるということ、それがあれば生きていけるんだなあと感じたんです」と言われています。(本書所収の木島照夫さんの文章より引用です)

生まれたときから失聴されていた人、聞こえていた時があったひと、そしてまたろう学校や、ろう者社会のなかで手話という「ことば」を得ている人、家庭、家族のなかでは手話をほとんどつかうことができなくて家族と「ことばのかかわり」を共有することが少なかった人、手話という「ことば」を禁じられて触れることが出来なかった人、そして聴覚障害者老人ホームでの、就学経験がなくて手話を収得していない「ろう」の入所者と手話で会話をコミュニケートする「ろう」の入所者の間のかかわりの「溝」。本当に様々な個別の状況で違う状態のようです。そして心理援助者、臨床の現場では「コミュニケーション」の障害であるという側面によって、双方とも疎外感を感じることがあったり・・・・。「ろう者自身による精神・心理療法も必要なのでは・・・でもろう者が医師や心理士になる道は閉ざされている」(片倉和彦さんの文章より)

心理臨床や福祉といったようなことに興味を持っている人だけではなく、様々な人が読んで、「実際にあること」に触れてほしい本だと思います。

choukaku

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November 18, 2004

知らない、想像されていない「普通」の世界(『自閉っ子、こういう風にできてます』)

「めめ」さんという方のやってらっしゃるブログ、「きらきらぐるぐる」の中で紹介されていて知った「自閉っ子、こういう風にできてます」(花風社刊)という本があります。昨日その本のことを知り、今日は即本屋へ直行(仕事場の近くに大書店があるのはこういうとき便利です)。ひきこまれて読んでいます。

ニキ・リンコさん(翻訳家)と藤家寛子さん(作家)の対談なのですが、お二人ともアスペルガー症候群という自閉症スペクトラムの方です。対談というか、鼎談に近いかも。出版者、編集者の浅見淳子さんの聞き手、リード役の絶妙さもあり、私には「?!」ということの連続の世界が展開されます。私は恥ずかしながら発達障害関係の知識はまったく無いのですが、何も知らない人(関わりをもっていなかったひと)が「自閉症」という言葉からなんとなくイメージしてしまうような世界像、感覚世界からは想像もつかないような感覚のフィールドがそこに繰り広げられています。

たとえば、

 「雨が痛い」(ニキさん)

 「コタツも、脚がなくなってこわいですよね」(ニキさん)

 「(コタツ布団を)めくって脚の位置を確かめないと立てないですよね」(藤家さん)

 「(ピーマンとかトマトとかどこから見ても色が同じものは)脳が酸欠起こしそうなほど気持ち悪かったです」(藤家さん)

自閉は「心の病気」といったものではなくて、「先天的な脳のつくりの違い」だとニキさんは言われています。ということは当然というか、付随して、ですが、身体機能がいわゆる一般(本の中では『定型発達』と言われていますが)の感覚とは違ってとらえられているということなのだと思います。定型発達の人には想像しにくく、またニキさん、藤家さんの主観からいえば「この身体がふつうだと思っていたので、定型発達の人たちがそれほどラクをしているとは想像していませんでした」ということになるのでしょう。

世界のうけとりかたのパターンの組まれ方がさいしょから「ちがって」いるのだということを握手のようにもっていることができたら、それと知らずに傷つけたり、決めつけたりということが少なくなっていくのかなと思います。「ふつう」はそれぞれのひとに、深くひろがっているものだと。


 ニキ・リンコさんのサイトがあります。自閉連邦在地球領事館附属図書館

「めめ」さんのウェブログ「きらきら ぐるぐる」の記事です。

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November 16, 2004

本に会えるとき(神谷美恵子/V.E.フランクル)

それまで書店で目にしていながら、読まないといけないと思いながら「まだだめ」とか「今はちゃんと受けとれないだろうな」という予感がして手に取ることができない本はないでしょうか。ある時期、あるきっかけなどでそれまで気になりつつも手をのばせなかったその本、著者の本に「会える」というか、「今ならちゃんと会えるとき」だなと思えるときがあります。その「声」はかなりはずさないで確かなものように思います。神谷美恵子さんの「生きがいについて」が新装版のコレクションで棚に並んだのを見たとき、それまでどこかで「敷居」を感じて(自分で立てていたのでしょうが)いたのが消えていました。「今ですね」という感じです。

フーコーの訳者でもあり、そして「らい」の患者さんの援助者であり、ウルフの研究者であり、というようないくつものイメージ、そして「無私の人」のイメージも感じて、しかも銀灰色の背表紙の著作集の持つ気配。自分にはこれまで、いつかは読まないといけないのだけれど今はまだ「そのとき」ではないかもしれないという感じがどうしてもしていました。何度か手にとっては棚にもどし・・・という対象が神谷さんの本でした。

「生きがいについて」を読み始めてまだ少しなのですが、「大事な本」になりそうです。

神谷さんと同じく、読まないと、と思いつつ踏み切れなかった人にV.E.フランクルがいます。春秋社からの何冊かがでたくらいから読まないととは思っていたのですが、「まだ少し」という感じでした。フランクルは村瀬学さんの「カップリングの思想」や多田・フォン・トゥビッケル・房代さんの「響きの器」などを読んでいたら、「今は読めるかもしれない」という感じに思えてきました。これもかなり確かな予感。今なら読めるときなのでしょう。

自分に必要なときに、時期があうときに、何かのつながりで目の前にあらわれてくれたり、あらわれなおしてくれる本というのがあって、それはとても確かなもので、読みだすとこちらに自然に入ってくるように感じます。こちらが出会えるようになったら向こうからやってきてくれるような。

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October 26, 2004

「カップリング」のことなど

久しぶりの更新になってしまいました。
ずっと書きたくて、うまく書けないことのまわりをめぐっていました。それは「先生」ということについてです。精神医学、心理臨床関係の本を読んでいると、「先生」「師匠」という言葉によく出会います。決して、書いた人たち、語られている人たちが「医者、治療者である」からということにとどまらず、臨床家を育てる、育つことの中に「先生」との出会い、「先生」と感じられる人との出会い、ということが大切な要素のひとつなのかもしれないと思います。そこで育てられる「人」、「技術」が、人と出会い、抱え、生命性の自然治癒力が動き出すための触媒としてあるための「ありかたの質」のようなものなのだとすれば、それは「先生」と呼べるような人との出会いの中で揺り起こされて育まれるような「しずかなちから」のようなものなのかもしれません。

自分にとって、そのような意味での「先生」って?など考えてしまいます。(それは踊りのことにかぎらず、広い意味でですが・・・・。)最初に踊りを習った人が「先生」なの?と振り返ってみると、決して自分にはそうではないと思うし、一番意識させられて、サジェスチョンも受け、この人のようであるのは自分には無理だけれど・・・、と思っている人が「先生」なのかと思うと、それも少し違うような気がします。その人のことは、「先生」という「距離感」ではないところで会いたいという感じがあるのだと思います。
そのような感覚のベーシックには、「先生」として心決められないこちらの「なにか」があるようにも思います。ある踊り手の友人は、(その人は先輩でもありますが)「踊り(舞踏)は師をもたないんだ」という感じでいうのだけれど、その人の言うのは分かるけれど、でも、それも腑に落ちる訳ではないし・・・という感じです。

いくつか、読んだ本のこと。

 井上信子著 「対話の世界」-心理援助からいのちの教育へ-(新曜社刊)

「ドキュメント」だと思う。クライエント(スクールカウンセラーとして出会った子供達)や、大学で先生をめざして勉強している学生たちとのあいだでの「かかわり」、「対話」のドキュメント。
井上さんはそれぞれの「いのち」の資質の開花というような言葉で言っています。それぞれのいのちの資質が揺られ、開かれてくる「とき」の対話、かかわりの様子のドキュメントであり、またクライエントの方、学生の方それぞれの「いのちの資質」のうごきのドキュメントでもあるようにおもいます。そして同時に、井上さんと、井上さんの臨床の先生(神田橋條治さん)とのあいだの、井上さんの「いのちの資質」にとっての揺らぎ、葛藤と、対話のドキュメントでもあります。

「対話」として間奏のように挟まれる神田橋さんの、やわらかさと「距離感」の次元を行き来するような「風と揺れを入れることば」がドキュメントを角度を少しかえたところから照射します。(でも神田橋さんもドキュメントの当事者でもあるような・・・)。

「先生」のことを考えてしまうようになっていたときに、ちょうどこの本を読み出して、「タイムリー」にも、さらに思いがつかないようになっていってます。


 村瀬学著 「カップリングの思想」-「あなた」の存在論へ-(平凡社刊)

注意、注意力が人にとっての「空間」をつくる、というようなことを考えていました。たとえば目にはいり、「映った」看板とか、人とか、景色とか、そういった時に(ただ見えただけではなく少しでも注意の対象として「あった」その時に)どちらが先かは(こちらから注意が向いたからか、対象からひきつけられたからなのかは)言えないもののように思うけれど、注意が向いたとき、注意がそれに引きつけられたときその対象は何か「必要さ」をはらんだものとしてそこにたちあらわれていて、「空間を」つくりだしている、というような・・・。そして、人はその「作用(はたらき)」そのものをどうしても必要としているのではないか、というような・・。

先の「先生」のことやそのようなことに考えが巡ってしまうときに本屋の棚で偶然この本を見つけて、「これは絶対自分に今大事なものかもしれない」と思い、手に取りました。

村瀬さんの名前は滝川一廣さんの本のなかで村瀬さんの「理解のおくれの本質」という本のことが紹介されていたりして知ってはいたのですが、読んだのは初めてでした。

V.E.フランクルや、寝たきりの障害者の少女「天音」さんのご両親のことや、臓器移植体験者でイタリア・ルネサンス研究者の澤井繁男さんのこと・・・などを引いて、ひとという生き物、「人間」というもののどこかからわき上がってくる「生き『よう』とすることへのベクトル」がどこから生まれるか、「ひとり(単独)」であることではなく「カップリング」という形態、状態がベーシックであるのではないか・・・といったことを考えさせられます。

わたしにとっての「なにか」である、という意味での「あなた」(それはかならずしも人間だけとはかぎらないのだけど)の存在を必要とする、人間のなかの「なにか」エネルギーのようなもの。それが「いきているという感触」ととてもつながっているということ。

最近どんどん自分にとって必要である本、言葉がつながってきています。知らなかったものを偶然目にしたりということも含めて。そのような時期にはなぜかつながってあらわれてくるのかもしれません。


いきなり(ではないんだけれど、)思い立ってジャンベ(アフリカの太鼓、ハンド・パーカッション)を買ってきました。9インチなので、あまり大きくはないものだけれど、自分のからだにはフィットするボリューム。その辺をいろいろ叩き方のイメージ変えてみながら叩き方の感覚を変えてみる。「皮」という平面をヒットするようなつもりで叩くのか、ジャンベの木のボディに皮を通して垂直に風、空気の振動を送る、通してやるような感じで叩いてみたり、とか。で、先の村瀬さんの本の印象もあるので、ジャンベを「あなた」にしてみるというのもあるなあと思いつく。音を出す楽器、道具というより、叩くということをとおしてただジャンベという存在(もの)に話しかけ、伝えているような気持ちで叩いてみる。感覚は、かなり変わるし、充実感の質のようなものもそのなかで変わって、面白いです。

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October 05, 2004

まだまだ「看護のための精神医学」

まだまだゆっくり読んでいます、「看護のための精神医学」です。
そこで「複数のもの、ことが共にあることがふつうのこと」で、「よい方向へうごいていくために必要かもしれないこと」を選び、からだ、「抱えかた」で空気のふくらみのようななにかを整流する。そしてそれは「いること」の共同作業でもあって・・・。やはり踊り、ダンスといったことのなにかに触れる、リンクすることがたくさん言葉にされているように感じます。
以下、また、本文より引用です。


「30分面接しなければワルイ」とか「親切に話を聞いてあげなくては、よい看護ではないもの」と医療者が思わぬことである。そういう考えは一般に「自分と接していることが患者に有益である」というたいへんな思い上がりである。
「指1本たてて微笑してさらりと別れる」ほうがずっと「信」を贈ったことになる場合が、人生にも医療にもずいぶんある。(p.231)


「医療はすべて人体実験である」という考えにたいして一言しておく。「医療は未知数を含む状況にたいして悪化の危険を最小に、状況の改善を最大にするようにおこなう、患者と医療者の共同作業である」と筆者は思う。実験的要素はそれに一面から光をあてたにすぎない。(p.233)


「患者が変わる」のであって、医療者が患者を変えるのではない。医療者は「患者が変わるの際の変化を円滑にし方向の発見をたすける触媒」、できるならばあまり害のない「よき触媒」であろうと願うのがゆるされる限度であると筆者は思う。(p233)


ある医師が、ある老人施設で痴呆性老人の身体看護は満点だが何かが足りないと感じた。彼はいまは何も口をきかない老人たちの生涯を調べて、看護詰所で語った。「この人は、障害児を育て上げた人です」「この人はガダルカナル島の戦いに生き残った人です」というように。
そうすると、いつの間にか空気が変わって、人間にたいする看護らしくなったという(p.257)


この患者は自殺しかないのでは、という患者からくる否定的な「暗い風」に圧倒されないことである。そういうときに、「あなたが自殺せずに生きつづけているのは喜ばしい奇跡だよ」とこころのなかでつぶやくのは自殺防止になる。このつぶやきは顔にでる。患者は治療者の顔色に敏感である。(p.211)


決して都合のいいように読み替えてつなげているのではないと思います。こういうことにつながるなにかを考えてみたり、そういうときの身体感覚やからだに立ちのぼってくる感情、こころを動いているときのからだに羽織らせてみて観察してみるのは、「表現」をつくること、「表現のようにする」こと、よりも大事かもしれないなにかをはらんでいるような気がします。

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October 01, 2004

「看護のための精神医学」

朝早めに家を出るので、東には上がったばかりの秋の陽と、西には白く透き通っているような月が見えます。今日のように雲もほとんどない天気だと(おまけに空気も澄んでいるようなので)、朝の月はとてもきれいです。

先週からずっとすこしづつ読み続けているのが「看護のための精神医学」(中井久夫・山口直彦著、医学書院刊)です。まだ半分くらいです。

文字通り、看護師、看護学生の方のための、精神科の病気や患者さんの医療・看護についての大切な案内書、という感じの本なのだと思います。私はある方のサイトKAMEL'S WEBSITEに神田橋條治さんのおすすめの本というのが紹介されてあり、それでこの本のことを知りました。

私のような「自分の側に引きつけた興味」で精神医学や臨床関係の本を読んでいる人間は、実際の病気のことや、治癒過程・治療関係のことなどをほとんど知りません。私の場合は実際に知人として精神疾患を引き受けてしまっている人という人も知らないでいます。そのようなところから読んでいる人にとってもこの本はとても実際に「患者さんの感覚の上に起こっていること」や、治療者・看護者・家族・周囲の人といったサポート側の人の「そばにいるありかたのうえでの気にかけるべきこと」に思いを巡らせてくれます。

「治療的にはたらく態度」(態度というか、「応対の気遣いの質」でしょうか)というものがあって、そのちょっとしたこと、気遣い、受け答え、声の音調・・・・・、で、患者さんにとっては「何か」になり得て、それが治癒への「地力のようなもの」、治癒へ向かえる「余裕のようなもの」をすこしづつ育くむ素地のための養分になっていくのでしょうか・・・。

以下は引用です。私にはとてもひきよせられる言葉です。

 急性統合失調状態を無理に「理解」しようとする必要はない。折れ合おうとする必要はない。できないことを無理にすると徒労で有害なだけだ。しかし人間は理解できないものでも包容することはできる。
 それは広い意味での「母性」である。筆者は男性だが、統合失調症の治療の際は、自分のなかの女性というか母性を動員している気がする。ただ、「母性」にも「副作用」がある。それはきつく包容しすぎて、窒息させることである。「卵を握るような、ふわりとして落とさない包容」という感じがよかろう。
 患者にたいするときは、どこかで患者の「深いところでのまともさ」を信じる気持ちが治療的である。信じられなければ「念じる」だけでよい。それは治療者の表情にあらわれ、患者によい影響を与え、治療者も楽になる。(p.142)


 慢性統合失調症の看護は、彼らを無視しないことから始まる。彼らがいないかのように廊下を急ぐ医療者は、患者からはさぞ「自閉的」に見えるだろう。軽くあいさつしながら廊下をゆっくり往復しているだけで病棟全体の雰囲気は変わる。これは「病棟を耕す」といって、荒れた病棟に着任したときにまず薦められる方法である。 


 患者を「精神医学化」しないことが大切である。「幻聴」と患者が言ったら、「ふしぎなささやき声?」と聞き返すようにするのがよい。


 引きこもっている悲妄想型の患者には、シュヴィング的方法がよいであろう。「人間が人間にとってものすごく危険ではないこと」を示し、人間になじんでもらう方法である。しかし患者の横に座る者はふしぎないらだちを感じて、用事を思いだして席を立ってしまう。これに耐えて、ふわりと患者の側に座っているということは簡単そうでむずかしいが、治療関係の出発点である。
 「コメントの多い母親」に似た行動をとらないのも重要なポイントである。


 急性期の錯乱している患者にたいしては、「いまは、あなたの人生に何回もない、非常に重要な時期だ。これを乗り切るために協力してほしい」
 反論に対しては、「あなたは生まれてからこうだったのだろうか?」
 治療関係の中で、「あなたが何をするか、何をしたいか、何をしたくないかを考えるゆとり(自由)がもてるまでお供しましょう」
 「精神病の治療の目標は、病気の前に戻すことではない。病気の前には、どこか不安定なところがあり、病気の種子があったに違いない(たいていの患者はうなずく)。病気の前よりもよくなる必要がある。そこに治療のむずかしさもあるのだけれど、せっかく貴重な体験をしたのだから。たとえ見ばえはしなくとも病気の前よりも安定した状態になることが大切だ。それは思いつめないゆとりのある状態であり、いちばん悪いことがいちばん実現しそうに思わない状態であり、アンテナがピリピリしてノイズまで拾ってしまわない状態だ」・・・・・・など。
         (以上p150~152)


引用が長くなってまったけれど、こういった言葉が背景にしている「気配」は、「直接」ではないかもしれないけれど、「踊っているときの自分と環境、人とのあいだの感覚」を考えたり省みたりということの大切な部分とリンクしているような気がします。「見えておもしろそうなこと」をしたり、自分の「My World」のようなものをただ環境に「これを見なさい」というようにぶつけたり、「自分の動き」のようなものを空間にただ置き捨てていくことを第一のようにパフォーマンスすることよりも、踊ることにとっての「何か、ベーシックとそのまわり」とにつながっているようなことがあるように思えます。一見、ダンスやパフォーマンスといったことがらと全く違う世界のことを書いてあるような言葉だけれど、そうではないのではないかなと、思います。
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September 22, 2004

「普通」・「隣」・「抱え」

「響きの器」のことを書いて以来、だいぶあいてしまいました。やはり大きかったのでしょう。(内容だけではなくて、今の自分の何かとのリンクという意味で・・)

その間、栃木での宮崎祐子さんのワークに参加したり、そのなかでいろいろな人と話したり、会ったり、自分の「作業場」のワークでの小さい発見があったり、参加するはずの公演、グループをから心をきめて降りたり、等々いろいろありました。

読んだもの
 神田橋條治「精神療法面接のコツ」(岩崎学術出版社)
 滝川一廣「こころはどこで壊れるか」(洋泉社新書)

滝川さんの本は、精神科医療、メディア、言説、社会、犯罪心理学等に関する現況を冷静に実際的に状況分析して、考えていく対談。神田橋さんの本は精神科医のための精神療法面接の実際に関するアドバイス、サジェスチョン。でも、からだ、ひとのありようについてのひろく、おそらくベーシックな「なにか」にふれているように思います。自分は、からだや、相手、そして広い意味での「環境」としての周囲・関わり合い、そして意識の集注感覚についての示唆を受け取ります。そして"attitude"。

今よみだしているもの
 
「看護のための精神医学」中井久夫・山口直彦著(医学書院)
 
文字通り、看護職を目指すひとたちへの精神科医療に関しての「教科書」、「副読本」です。様々な病気・病態についての知識、そして、「治癒」していく過程のこと・・・。
 
 「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。病気の診断がつく患者も、思うほど多くない。診断がつかないとき、医師は困る。あせる。あせらないほうがよいとは思うが、やはり、あせる。しかし看護は診断をこえたものである。『病める人であること』『生きるうえで心身の不自由な人』ー看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際、医師の治療行為はよく遅れるが、看護は病院に患者が足を踏み入れた、そのときからもう始まっている・・・・」(本文より)

いま、自分にとっての「ことば」が三つあります。「普通」と、「隣」と、「抱え」です。
「普通」と「隣」は踊りのシリーズタイトル(テーマ、のほうが近いでしょうか)にもつかっています。「隣」は最初踊りのために浮かんだ時のニュアンスと、今自分がそのことばにかけたいニュアンスとは大分移ってきています。「知っている感覚の『隣』へ・・・」から、ただ「隣に身を置いているからだ」へ。「普通」はそれこそ、「普通」です。もうひとつのことば。神田橋さんの本からもらいうけたものが「抱え」です。

これは神田橋さんが言ってることではありませんが、皮膚で、自分の存在を「抱えて」あげる。自分の「からだ」で自分の存在を「抱えて」あげる。空間、空気に自分を「抱えて」もらう、空間、空気が自分を「抱えて」くれるように自分の何かをシフトしていく・・・・・と私のなかには拡がります。

『がしっ』と受け止めてくれる「抱え」もあれば、やさしく触れているような「抱え」も、見守っているよ、という「抱え」もあるでしょう。そこで生体の自然治癒力や地力がはたらきだしてくるための、みとめられているという空気空間にサポートされてなにかが動き出してくるための「素地空間」のようなものなのかもしれません。

尻切れトンボですが・・・。


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September 06, 2004

Lebens-Musik 「響きの器」

「響きの器」という本があります。
書かれたのは、ドイツで音楽療法(彼女は"音楽治療"といっていますが)をやっている多田・フォン・トゥビッケル・房代(のぶよ)さんという方です。

Lebens-Musik <生きていること>と音楽。
その人-いのち-在ることを、「音、音楽」として「聴く、"響き"としてからだを通っていく」。
風、空気、樹木・・・・、を「音、音楽」として「聴く、"響き"としてからだを通っていく」。

「響き」を感じる身体、「響き返す」身体、『響きの器』。

多田さんは「音楽治療」について、『正しくする、もとどおりにする、とそう思って私たちはこの仕事にとりかかっているのではないと思います。ーたとえ結果がそうなったにせよ、です。ともに経験、体験するこの音-楽プロセスの中で、治るー「安らかに定まってくる」「整ってくる」つまり、Stimmen「調整する」「音を合わせる」と重ねて、そのような響きで受け止めることができるのではないでしょうか。』(105p)と言っています。(医学と音楽の「間」)

昨日電車のなかでこの本を読んでいて、うまれてはじめて・・・そりゃ、普通そんなことしないから(笑)・・・ぼろぼろ涙を流しながら、でも、だからといって本を途中で閉じる心にはなれずに、読んでいました。

踊りと、こどもと"ともに"つくる美術アトリエとを「自分のこと」としてつなげているやっている友人に教えたくなってしまい、電話をする。きっとその友人には「なにか」になる本だろうと思ったので。
そういうふうにかりたてられる本、ことばの本・・・。

多田・フォン・トゥビッケル・房代(のぶよ)著「響きの器」(人間と歴史社)

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August 28, 2004

It's a Special Book!! 「精神科養生のコツ」神田橋條治著

先日書きました、「誰も知らない」を見た後に買った、精神科医、神田橋條治さんの「精神科養生のコツ」(岩崎学術出版社)を読んでいます。読んでて「いい、いい」感じてしまうと、はやく書きたくなって、読み終える前でも書いて紹介したくなってしまうのです。

精神科の患者さんに向けての、からだ、こころを少しおちつけたり「気持ちがいい」というところにからだをTuningするためのいろいろな素材集のような感じの本です。とはいっても「How to」本という印象はまったくなくて、むしろとても「原理的」なところも感じられます。

精神科の病気は「こころの病気」だと思うからより治りにく、苦しく、存在をオープンにしない(されづらい)のであって、正しくは「脳の病気」なんだと、また「こころ」は脳という"臓器"の「はたらき」だと、言われていて、納得です。こころというはたらきにの上にあらわれる「症状」は自然治癒力のあらわれ、働きが知覚、感じられたものとしての側面もあるということ。

「こころが気持ちいい」って言ってるのと「脳が気持ちいい」って言っていることはちがうのだということ。紹介してあることでも、すこしためしてみて「気持ちよかったら」やればいいいし、そうでなかったらやめればいい。今は向かないのだからと・・・。

ついでに言えば絵もいい(笑)からだに「気がつく」チャンネルを足していきたい、とかいろいろゆるめてみたいと思ったひとが いろいろためしてみたり、生命性の環境である「身体」への考え方に触れるためのいい本だと思う。

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August 11, 2004

「こころ」の本質とは何か

前の記事で書いた、滝川一廣著『「こころ」の本質とは何かー統合失調症・自閉症・不登校のふしぎ』(ちくま新書)を読んでいます。(最近ほとんど精神・心理関係の読書日誌みたいになってきてますね・・・)

いままでいろいろな興味から木村敏さんの書いたものや、最近は記事でも紹介しているいくつかの本を読んでいたのですが、自分のなかにはほとんど精神医学や精神障害というものの見取り図のようなものはありませんでした。本を読む中で、言葉として「統合失調症(旧名精神分裂病)」とか「躁鬱病」とか「自閉症」とか入ってきてはいるけれど、具体的な像を結んでいないという感じでした。(ただの不勉強といえばそれまでですが)滝川一廣さんのこの新書を今回読んでいてはじめておぼろげな見取り図というかそんなようなものが入ってきました。

人間の「精神発達」というものはどういうことで、どんなことがおきているのか、またそれが解釈、取り扱われてきた歴史はおおまかどうなっているのかというアウトラインのようなものを簡単に分かりやすくみせてくれるような気がします。

でもそれだけでない(教科書的な説明の本でないのは)著者の精神科医としての(それは実はその人としての、ということでもあるのだと思いますが)関心=ひかれてしまうことをとおして書かれているからのように思います。その意味で自分のような初心者、門外漢にはとてもよいシンプルな「手引き書」です。

まだまだ読みかけ、これから自閉症・発達障害〜不登校へと進んでいきます(本の実況中継みたいだな)。

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July 23, 2004

普通

中井久夫さん村瀬嘉代子さんと、精神・心理臨床の方の本ばかり読んでいます。で、次に読んだのも「べてるの家の「非」援助論」(医学書院)です。

どうしてこのような言葉(べてるにかぎらず、中井さん、村瀬さんの言葉も「現場の当事者」の言葉です・・・もちろん彼らは病気の当事者=患者ではないけれど・・・)にひかれるのかというと、やはり「普通、ふつう」ということを考えてしまうからなのかもしれないと思います。なにが「普通」か、なにが「当たり前」か・・・。そして「閉じない(閉じてしまっていることもみとめたうえから)ことに触れるための身づかい、肌づかい」とでもいうような何かを感じます。

自分のなかには「これでも普通です」といいたいところがあります。(わざと変なこと、妙そうなことをやってそれを「普通だよ」というようなことや「変でしょ」というようなこととは全然ちがうことなのですが。)

てらうわけではない、ふつう。「これでも、はじめられる"普通"です」というような。

(「べてるの家の非援助論」はSanaさんのウェブログ「Silent Voices」の記事で知りました。また、べてるの家にはホームページもあります。

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