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August 31, 2004

手紙のつもりで(自分をTuningするための歌)

ごぶさたしています。お元気ですか。

悲しいときや、きついとき、とても怒りの感情にまかれてしまったときに、自分を鎮めるためか、あるところにTuningしなおすためか、知らず静かに口をついて出てきてしまう「歌」ってありませんか?
僕はいくつかあるのです。
いくつかあるうちでどの歌がでてくるのかは、そのときでないとわからないんです。でも、なにかそれぞれでつながる感じはあるのかな。

映画「ひとりでいきる」(ヴィターリ・カネフスキー監督)のなかのいくつかのフレーズとか。
でも、いちばんでてくるのは、ほかの歌。

 「卒業」 谷川雁 作詞  新実徳英 作曲
 
 紙ひこうき 芝生で とばしたら
 おりたたむ かなしみが ひらいた
 この 白さは いつまで のこるのか
 天山北路の すなふる はなみずき
 まどがらすに さよなら 書いたゆび 
                   (一番)

 「十四歳」 谷川雁 作詞  新実徳英 作曲
 
 はなびらのにがさを
 だれがしってるの
 ぴかぴかのとうだい
 はだしでのぼったよ
 かぜをたべた
 からっぽになった
 わたしいま十四
 うみよりあおい
 はなびらのにがさを
 だれがしってるの
 だれが


二つとも新実徳英作曲・谷川雁作詞 十代のための二部合唱曲集「白いうた 青いうた」という曲集のもので僕は藍川由美さんの歌うCD(ピアノ演奏 花岡千春さん)「鳥舟」(カメラータ・トウキョウ 30CM-352)で知ったのです。
ある踊りの会にすこし疑問ももちつつ参加していたときに、友人が前日にくれた、セレクトしてくれたカセットに「十四歳」が入っていて、朝、会場に入る前の電車ではじめて聴いたとき泣けてしまったんです。自分のことをそのなかでちゃんとやればいいと思えたんだと思います。

自分をひとつの線のように鎮めてみても、絃をTuningするときに音がひとつの線に添っていくように自分をTuningしてみるからといって、まわりと自分のことそのものがかわるわけではないけれど、でも、心臓のための居場所を、やさしいものに、柔らかい手の中のようなものに息づかせてあげることくらいにはなるかもしれません。

自分をTuningするための歌は、僕の場合は「歌」なのですが、でも、「歌」にかぎらないのかもしれないですね。自分をみとめてあげることばをじぶんにかけつづけてあげることなどもあるのかも、とも思います。

こわれてしまうことはいいことでもなんでもないから。

 

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August 28, 2004

It's a Special Book!! 「精神科養生のコツ」神田橋條治著

先日書きました、「誰も知らない」を見た後に買った、精神科医、神田橋條治さんの「精神科養生のコツ」(岩崎学術出版社)を読んでいます。読んでて「いい、いい」感じてしまうと、はやく書きたくなって、読み終える前でも書いて紹介したくなってしまうのです。

精神科の患者さんに向けての、からだ、こころを少しおちつけたり「気持ちがいい」というところにからだをTuningするためのいろいろな素材集のような感じの本です。とはいっても「How to」本という印象はまったくなくて、むしろとても「原理的」なところも感じられます。

精神科の病気は「こころの病気」だと思うからより治りにく、苦しく、存在をオープンにしない(されづらい)のであって、正しくは「脳の病気」なんだと、また「こころ」は脳という"臓器"の「はたらき」だと、言われていて、納得です。こころというはたらきにの上にあらわれる「症状」は自然治癒力のあらわれ、働きが知覚、感じられたものとしての側面もあるということ。

「こころが気持ちいい」って言ってるのと「脳が気持ちいい」って言っていることはちがうのだということ。紹介してあることでも、すこしためしてみて「気持ちよかったら」やればいいいし、そうでなかったらやめればいい。今は向かないのだからと・・・。

ついでに言えば絵もいい(笑)からだに「気がつく」チャンネルを足していきたい、とかいろいろゆるめてみたいと思ったひとが いろいろためしてみたり、生命性の環境である「身体」への考え方に触れるためのいい本だと思う。

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August 25, 2004

光の風とおもさ(誰も知らない)

昨日、タテタカコさんのライブ、今日は「もと」の映画、「誰も知らない」(是枝裕和監督)を見に行く。以前偶然見に行ったのが水曜(映画が1000円で見れる日)だったので、夕方の会に行っても、夜の会の分まですべて整理券発行済みで、見ることができなかった。ようやく見れたのだけど、10分前に駆け込みでは、最前列見上げの席しか空いていなくて残念。でも、始まってしまえばそんなことなど気になることもなく引き込まれる。

予告編で見たときも思ったけれど、ひかりがもっている軽さ、重さが風のようにはねる感じがする。それぞれの人たちと、そこにある世界をつなぐもの、なにかを確認するために触れられるもの。アポロチョコだったり、マニキュアであったり、運んでいくスーツケースだったり。そしてそれは「もの」だけでなく、見守っている人であったりもする。はからずも「世界」との間に立ってあげている人。

そとに出ていこうと、走るこどもたち。そのときのまわりの空気にはきっと光の色もあり、重さもあって。

子供たちは外にたすけてもらうことよりも、(たすけてももらっているのだけれど)自分たちが一緒にいることを選ぶ。ひとりひとりになってたすけられていきていくことよりも、一緒にいてやっていかないと、ということを、えらぶ。一緒にいて、外を見る目。でもそれはたくましさのようなものよりも、「皮膚でするつなわたり」(?)のようなものに近くて。「肌合い」のようなもので、近しい人を感じて、受け入れて。

「自分の手でする」しかないことで、でも、そのためには(その、自分のためには)「ひとりで」ではなく「見ていて、ともにしてくれる人」が必要で。

つづいていくしかない、つづけていくしかない(それは自分たちのためでもあるし、ひょっとしたら「出ていったひとのための居場所」のためなのかもしれないけれど)からそれでもならんで立って歩くような。

こんな書き方ではぜんぜん映画の説明(する気もあまりないけれど・・・)になってないのですが・・・。「なんのこっちゃ」という感じかと思うけれど。

映画のあと、神田橋條治さんの「精神科養生のコツ」(岩崎学術出版社)を見つけて買う。ワークなどにもとてもつながることが、そしておそらく「当たり前」にちかいようなことが書いてあるような予感がします。

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August 24, 2004

「たて」に立てられる声とうた

涼しい小雨の中、吉祥寺の"star pine's cafe"にタテタカコさんのライブを聴きに行く。

是枝裕和監督の映画「誰も知らない」のなかの挿入歌を歌っている人。映画の予告編で聴いてから、(まだ映画自体見れてないのだけれど)見てみたいと思っていました。

エレクトリック・ピアノのペダルを、靴を脱いで、靴下で踏む(笑)。片靴、片靴下での演奏。

CDで聴いた感じだともっと「ふわっ」とした声質、歌い質(?)のひとなのかなと思っていたら、とても芯のある伸びやかな声の人だった。

MCはとても緊張するみたいでそそくさと、という感じなのだけれど、歌いはじめるとその緊張がすっと集中のなかに「縦に」収まって、凛とした感じに立つような感じがする。歌いながら、ときおり目を閉じ自分に集中するように、そしてまっすぐ、目が前に開かれて。

声はまわりに、前に出されているはずなのだけど、「上に」のびていくような感じに聞こえる。なにか、"柱"になって大きくひろがっていくような。

映画のなかで使われている「宝石」や、「あの人」などが耳にのこる。ちいさいけれど、立てられて、のびていくうたうからだの気配。

つい、からだを動かしながら聴いてしまう自分の癖を抑えて、呼吸を立てて、「胸で聴く」というか「胸を向き合わせて」、「胸郭が共鳴して震えているのを感じて」聴いてみる。そうすると歌の、声の「たての」空間に自分も入っているような感じがする。


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August 22, 2004

断片日誌・白州編

8/18、ダンス白州参加のため山梨県白州町の「身体気象農場」へ。武蔵野線から中央線に乗り換え、時間に余裕あったので、各停で、大月、甲府と乗り換え、韮崎よりバスで30分。
15:30から、巨摩神社にてロシアのダンサー、アーニャ・ガラフィーヴァのソロ、明尾真弓さんのデュオとつづけて観る。アーニャの一本足のシーンや川沿いに立っているシーンがよかった。人は多分二足歩行というより、一足で立てるようになったから歩けるようになったのではないかと思うので、立つことと、働いている重力などを思わされる。

明尾さんは、神社の舞台を「そで」のようにして、庭を舞台のように使い踊る。ある意味、自分の踊り方をこの場に置いてみるということでは、変に雰囲気に合わせて動こうということがないのは正攻法かも知れないと思う。でも、自分より前に存在して時間を生きているものたちを「舞台セット」みたいに「使える」ものとしてしまうのはどうかなあ、と思う。

8/19、朝10:00より昨日のダンスについてのパトリック・ドゥ・ヴォスさんの談話。ベルギーより来日され、身体表象論を東大で教えている方。よく日本のダンス、舞踏も観ている人だと思う。ドラマティックに解釈していく。とても語りたいことにまっすぐな方なのだなという印象。談話の中で、フランス語で語ってしまう時があって、日本語のときより、からだと言葉の回路が統合されている感じにすっと変わったのが面白かった。眼の醒めるよう。

15:30より夏井秀和、玉井康成のソロ、続けて。農道にて。二人とも白州在住で舞踊集団・農事組合法人「桃花村(とうかそん)」のダンサー。さすが、環境に添うように立ついかた、足取りをもっている。夏井さんはとても切とした、でも淡々とした、体熱が空気を通して見る人に浸透してくような踊り。とてもよかった。玉井さんは鶏を掲げ放したりいろいろ。場所の媒介者であるために「馬鹿」になることという踊り手のありかたのためにどんどん自分を賭けていく。踊りの「編集性」を思う。場所を編集するために自分をどんどん編集していくこと、そこへのジャンプ。見る人のこころを放してくれるダンス。

夜は大友良英ギターソロ、共演田中泯。「土の家」という地面に掘り下げられた方形の「家」でのパフォーマンス。そのあと、山田洋次監督を招いてのトークと、初期の彼の映画「馬鹿が戦車(タンク)でやってくる」の上映。スペシャル喜劇。とても面白かった。ビデオになってるようなので、ぜひどうぞ。

8/20、10:00より建築家樋口裕康さんによる前日のダンスの談話。自分は午後よりパフォーマンスなので、準備のため聞けず。ディスカッション中心のいい談話だったらしい。
15:30より自分のソロ。17:00よりロシアのワシリー・ユスチェンコのソロ。「水の舞台」という原口典之さんの美術作品にて。

以前同じ場所で踊った時にうまくいかなかったことや今自分が思っている「普通」のこと、そして、昨日、おとといとみた明尾さん、玉井さん、夏井さんの踊りのことなどを考えて、自分は「場所に負けたところ」から始めようと思う。明尾さんのように場所を「使える物・自分のための装置」とすることは自分は違和だったけれど、かといって夏井さん、玉井さんのようにはここに立って歩いて呼吸して動くことは出来ない。自分にできるかもしれないことは、「場所に負ける」こと。そして、自分と場所をつないでくれるよりどころとして、「ビニール傘」と石を小道具として使うことだった。

「普通」であることを追い続けようとしても、外側の環境、山並み、陽光、風、雲、水、そして水の張られた境界面を意識しつづけさせられる屋外美術といったさまざまな「環境」が「普通」を普通のリズムで追い続けることを許さない(笑)。というか、環境は、「普通」を追い続ける以上の何かを意識の量か、速さかに要請してくような気がする。「普通に普通を追っているヒマはない」というような・・・。でもあくせく、ばたばたして「意識が速いつもり」になってもしようがないことはわかっていたので、「普通」として環境に添いつづけられるように、そのいかたはできるだけまっとうできるようにとは思う。妙な分裂感が踊っている間中あって、自分ではよいも悪いも判別ができない・・・。

ワシリーのソロは爽快だった。竹で作られ、草で装飾された椅子と、長く重い、竹の棒をつかって。はんぱに彼のしてることをやると、多分とてもいやらしくなりそうなのだけど、彼はしっかり体をその場に立てて行為を展開してゆく。からだをめいっぱい使って。力強さと爽快さと観客のなかから起こる笑みと。いいパフォーマンスだったと思う。からだというものの「ちから」を思う。

夜は「桃花村」の舞台作品、「ひとさらい・白州版」年末に新国立劇場でやったものの、改訂版。夜の闇から登場し、消えていく踊り手たちの奥行き。最初の田中泯のソロ、こちらのからだも一緒に揺れる。途中少し空気が落ちていきかけたけれど、持ち上がる。

8/21、朝の談話。今日はフランス文学、思想批評の宇野邦一さん。アルトーやベケットの翻訳、批評などされる。実は自分が踊るきっかけとなった土方巽というひとの名前を初めて眼にしたのは多分宇野さんの本によってなのだと思う。そういう経緯もあり、昨日の踊ってるときから緊張だった。
宇野さんの話は踊りを観ること、踊ること、感覚、境界、といった「あいだで揺れ動きつかみきれないけれど、そこにあるはずのもの」をめぐって昨日の二人と桃花村の公演を素材に進み、「とても基本的であるはずのこと」をめぐり、有意義だった。

午後から紙漉きのワークショップを見学。19日に談話をしたパトリックがフランス語でダンスのワークショップに来ていた外国人達に「熱い」通訳。時折宇野さんが彼をサポート。周りでは夜の奥三河花祭り神楽のための準備が進む。

15:30からザック・フラーのソロ、17:00から田辺知美のソロが「土の家」にて。合間に花神楽の基本の動きの体験ワーク。これが難しい。シンプルに見えて、ちゃんと分解してからだにいれないと自分はついていけそうにない。民俗舞踊は実はとても複雑なことを当たり前のようにやっているのだと思う。物理的難しさはきっとバレエやモダンダンスのステップのほうがあるのだと思うけれど、だれにでもわかるかのように、運動的に抽象化されている。民族舞踊のステップの「複雑さ」は物理的にはだれにでも出来る可能性を開いてるけれど、「運動的」とは別の抽象化がされているのだと思う。その抽象化の中を通って、ゆえの「複雑さ」が残っている。また、実はとてもからだをつかっている。きつい。(笑)

田辺さんの踊りをはじめて「上から」観る。普段ちいさい小屋でみるときはどうしても客席方向の面からしかみえないから上から見ると、「こんなことしてるんだ」ということをあらためて思う。最初、かなり立っての踊りの時間のあと、横たわる。最初土壁をてのひらでかるく叩いて、辺にそって歩くとき、この人の足は掌みたいに地面にふれるなあと思う。よこたわってからの踊りを観ていて、ひょっとしたらこのひとも「自分にとっての普通」をてらいなく呼吸させていたいと思っているのかもしれないと思う。「普通の同志」(?)のような気がして、勝手な思いこみかもしれないけれど、少し嬉しくなってしまった。

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August 17, 2004

断片日誌

今日は(8/16)朝日がとてもきれいでした。まっすぐこちらにさしてくるというか。朝5:40に家を出て最初の角を折れたら、いきなり真正面に朝日。空気の水分が少しあるせいもあるのか、水分に反射しているような感じがする。きっと年に何回もない、角度、時間、自分の通るタイミング、その他いろいろなことが重なったかんじなのかもしれない。

8/05 ワーク。常連の踊り手さん、御之道さんと、ご友人の小田さん(気孔、能をやってらっしゃる)。あたま、顔から座骨まで、骨格をパートナーに触れてもらいながら、確認、意識してみる。とか、いくつか。

8/06 木村由ソロダンス「すきやき・2」で照明を。ちゃぶ台にのって、そこから降りないということを課題として、そこでどんな動き、自分のありかたを見つめ模索できるかというようなアプローチのダンス。集中力が空気とのあいだにうまく何かを立たせていて、よかったと思う。

8/12 自分のソロダンス「普通」。ブログでも書いてるような、「これも普通です」ということをてらいなく開いていけたらと思う。やりたかったことには触れられたような感じ。でも、途中から「踊りとして展開させよう」とかどこかで思い始めて、うまく立ち止まれなくなってしまうときも。ほんとうはそれは余分なことのような気がする。
 今自分がどういうやりかたをしていきたいのか、ということがあらためて腑に落ちたような感じがあってやってよかったと思う。

8/14 のぐちひろしさんのライブへ(四谷ソケースロックにて)。彼の歌は「〜風」の曲調になんか言葉をのせて「歌にしてみました」というような感じが感じられなくて、「彼の歌」というようにこちらに届いてくる。決してなんども聴いて、曲を知っているからということではなく、歌の世界が歌われていく中ですこしづつ育っているような、そんな感じをうけるというか。
 最近の彼はとても地に足がついて歌っているような感じもする。歌ってるのを見ていての、印象がかわった。これは、友達として嬉しい。
 今回はファーストCD「満ち欠けのしずく」の発売記念。その会場で、豆本やイラストe.t.c.をつくる作家さんと知り合う。手作り感と、淡いけれどはっきりした色合いを持つ作品をみせていただく。

滝川一廣著「こころの本質とは何か」を終えて、B.A. van der Kolk編著の「サイコロジカル・トラウマ」(金剛出版)というPTSDについての論文集へ。「普通」や「隣に-side-」といった、自分にとっての気になってしまうことにつながってくる、からだやこころのありかた、はたらき、なりたちのことなどを思うと、どうしてもこういった本、「臨床や、ありかたのことば」のようなものに引き寄せられます。「EUREKA」を何度も読み返したり、見返したりしてしまうのもそんなこととつながっているように思う。

明日(8/17)は今月二回目のワーク。でも誰がくるのか何人になるのか読めないので(笑)、いくつかやってみたいことがあっても、どうなるかわからない。かなり参加してくれる人や人数で実際変わるので・・・。どうしよう。

明後日から山梨、白州町へ。「ダンス・白州2004」参加のため。水の舞台という屋外美術作品を踊り場に、8/20日の午後に踊る予定。「普通」ということと、青空(雨だったりして・・・)へ抜けていく縦軸みたいなものを意識してできたら、というところからやれたらと。

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August 11, 2004

「こころ」の本質とは何か

前の記事で書いた、滝川一廣著『「こころ」の本質とは何かー統合失調症・自閉症・不登校のふしぎ』(ちくま新書)を読んでいます。(最近ほとんど精神・心理関係の読書日誌みたいになってきてますね・・・)

いままでいろいろな興味から木村敏さんの書いたものや、最近は記事でも紹介しているいくつかの本を読んでいたのですが、自分のなかにはほとんど精神医学や精神障害というものの見取り図のようなものはありませんでした。本を読む中で、言葉として「統合失調症(旧名精神分裂病)」とか「躁鬱病」とか「自閉症」とか入ってきてはいるけれど、具体的な像を結んでいないという感じでした。(ただの不勉強といえばそれまでですが)滝川一廣さんのこの新書を今回読んでいてはじめておぼろげな見取り図というかそんなようなものが入ってきました。

人間の「精神発達」というものはどういうことで、どんなことがおきているのか、またそれが解釈、取り扱われてきた歴史はおおまかどうなっているのかというアウトラインのようなものを簡単に分かりやすくみせてくれるような気がします。

でもそれだけでない(教科書的な説明の本でないのは)著者の精神科医としての(それは実はその人としての、ということでもあるのだと思いますが)関心=ひかれてしまうことをとおして書かれているからのように思います。その意味で自分のような初心者、門外漢にはとてもよいシンプルな「手引き書」です。

まだまだ読みかけ、これから自閉症・発達障害〜不登校へと進んでいきます(本の実況中継みたいだな)。

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August 05, 2004

こんなものが出ていたのかと・・・

昨日(8/3)スタッフで関わっているライブスペースplanBの月刊カレンダーを印刷屋に取りに行った際、待ち時間の間に近くの書店に寄りました。(中野ブロードウェイにある明屋(はるや)書店)普段あまり文庫、新書のコーナーまでいかない(仕事場近くの大書店にいくので)のですが、小さめの本屋だと回ってしまいます。
そこでついつい三冊購入。

宮子あずさ著「病院にかかるときの知恵袋」(講談社α新書)
滝川一廣著「こころの本質とは何か-統合失調症、自閉症、不登校の不思議-」(ちくま新書)
もう一冊が、「あれ、こんなの出るの?」というかんじのもので、高橋悠治の「コレクション1970年代」(平凡社ライブラリー)です。

考えをかきとめていき、「方法」というよりも「やりかた」を模索していくためのノートのようなことば。それと、音楽と社会と・・。

「病院に〜」は内科〜精神科へと異動されたベテラン看護師の方の視線からの、病院、医療に関するエッセイ。面白そう。「こころの〜」は最近の自分の興味の範疇から・・・。

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