8/18、ダンス白州参加のため山梨県白州町の「身体気象農場」へ。武蔵野線から中央線に乗り換え、時間に余裕あったので、各停で、大月、甲府と乗り換え、韮崎よりバスで30分。
15:30から、巨摩神社にてロシアのダンサー、アーニャ・ガラフィーヴァのソロ、明尾真弓さんのデュオとつづけて観る。アーニャの一本足のシーンや川沿いに立っているシーンがよかった。人は多分二足歩行というより、一足で立てるようになったから歩けるようになったのではないかと思うので、立つことと、働いている重力などを思わされる。
明尾さんは、神社の舞台を「そで」のようにして、庭を舞台のように使い踊る。ある意味、自分の踊り方をこの場に置いてみるということでは、変に雰囲気に合わせて動こうということがないのは正攻法かも知れないと思う。でも、自分より前に存在して時間を生きているものたちを「舞台セット」みたいに「使える」ものとしてしまうのはどうかなあ、と思う。
8/19、朝10:00より昨日のダンスについてのパトリック・ドゥ・ヴォスさんの談話。ベルギーより来日され、身体表象論を東大で教えている方。よく日本のダンス、舞踏も観ている人だと思う。ドラマティックに解釈していく。とても語りたいことにまっすぐな方なのだなという印象。談話の中で、フランス語で語ってしまう時があって、日本語のときより、からだと言葉の回路が統合されている感じにすっと変わったのが面白かった。眼の醒めるよう。
15:30より夏井秀和、玉井康成のソロ、続けて。農道にて。二人とも白州在住で舞踊集団・農事組合法人「桃花村(とうかそん)」のダンサー。さすが、環境に添うように立ついかた、足取りをもっている。夏井さんはとても切とした、でも淡々とした、体熱が空気を通して見る人に浸透してくような踊り。とてもよかった。玉井さんは鶏を掲げ放したりいろいろ。場所の媒介者であるために「馬鹿」になることという踊り手のありかたのためにどんどん自分を賭けていく。踊りの「編集性」を思う。場所を編集するために自分をどんどん編集していくこと、そこへのジャンプ。見る人のこころを放してくれるダンス。
夜は大友良英ギターソロ、共演田中泯。「土の家」という地面に掘り下げられた方形の「家」でのパフォーマンス。そのあと、山田洋次監督を招いてのトークと、初期の彼の映画「馬鹿が戦車(タンク)でやってくる」の上映。スペシャル喜劇。とても面白かった。ビデオになってるようなので、ぜひどうぞ。
8/20、10:00より建築家樋口裕康さんによる前日のダンスの談話。自分は午後よりパフォーマンスなので、準備のため聞けず。ディスカッション中心のいい談話だったらしい。
15:30より自分のソロ。17:00よりロシアのワシリー・ユスチェンコのソロ。「水の舞台」という原口典之さんの美術作品にて。
以前同じ場所で踊った時にうまくいかなかったことや今自分が思っている「普通」のこと、そして、昨日、おとといとみた明尾さん、玉井さん、夏井さんの踊りのことなどを考えて、自分は「場所に負けたところ」から始めようと思う。明尾さんのように場所を「使える物・自分のための装置」とすることは自分は違和だったけれど、かといって夏井さん、玉井さんのようにはここに立って歩いて呼吸して動くことは出来ない。自分にできるかもしれないことは、「場所に負ける」こと。そして、自分と場所をつないでくれるよりどころとして、「ビニール傘」と石を小道具として使うことだった。
「普通」であることを追い続けようとしても、外側の環境、山並み、陽光、風、雲、水、そして水の張られた境界面を意識しつづけさせられる屋外美術といったさまざまな「環境」が「普通」を普通のリズムで追い続けることを許さない(笑)。というか、環境は、「普通」を追い続ける以上の何かを意識の量か、速さかに要請してくような気がする。「普通に普通を追っているヒマはない」というような・・・。でもあくせく、ばたばたして「意識が速いつもり」になってもしようがないことはわかっていたので、「普通」として環境に添いつづけられるように、そのいかたはできるだけまっとうできるようにとは思う。妙な分裂感が踊っている間中あって、自分ではよいも悪いも判別ができない・・・。
ワシリーのソロは爽快だった。竹で作られ、草で装飾された椅子と、長く重い、竹の棒をつかって。はんぱに彼のしてることをやると、多分とてもいやらしくなりそうなのだけど、彼はしっかり体をその場に立てて行為を展開してゆく。からだをめいっぱい使って。力強さと爽快さと観客のなかから起こる笑みと。いいパフォーマンスだったと思う。からだというものの「ちから」を思う。
夜は「桃花村」の舞台作品、「ひとさらい・白州版」年末に新国立劇場でやったものの、改訂版。夜の闇から登場し、消えていく踊り手たちの奥行き。最初の田中泯のソロ、こちらのからだも一緒に揺れる。途中少し空気が落ちていきかけたけれど、持ち上がる。
8/21、朝の談話。今日はフランス文学、思想批評の宇野邦一さん。アルトーやベケットの翻訳、批評などされる。実は自分が踊るきっかけとなった土方巽というひとの名前を初めて眼にしたのは多分宇野さんの本によってなのだと思う。そういう経緯もあり、昨日の踊ってるときから緊張だった。
宇野さんの話は踊りを観ること、踊ること、感覚、境界、といった「あいだで揺れ動きつかみきれないけれど、そこにあるはずのもの」をめぐって昨日の二人と桃花村の公演を素材に進み、「とても基本的であるはずのこと」をめぐり、有意義だった。
午後から紙漉きのワークショップを見学。19日に談話をしたパトリックがフランス語でダンスのワークショップに来ていた外国人達に「熱い」通訳。時折宇野さんが彼をサポート。周りでは夜の奥三河花祭り神楽のための準備が進む。
15:30からザック・フラーのソロ、17:00から田辺知美のソロが「土の家」にて。合間に花神楽の基本の動きの体験ワーク。これが難しい。シンプルに見えて、ちゃんと分解してからだにいれないと自分はついていけそうにない。民俗舞踊は実はとても複雑なことを当たり前のようにやっているのだと思う。物理的難しさはきっとバレエやモダンダンスのステップのほうがあるのだと思うけれど、だれにでもわかるかのように、運動的に抽象化されている。民族舞踊のステップの「複雑さ」は物理的にはだれにでも出来る可能性を開いてるけれど、「運動的」とは別の抽象化がされているのだと思う。その抽象化の中を通って、ゆえの「複雑さ」が残っている。また、実はとてもからだをつかっている。きつい。(笑)
田辺さんの踊りをはじめて「上から」観る。普段ちいさい小屋でみるときはどうしても客席方向の面からしかみえないから上から見ると、「こんなことしてるんだ」ということをあらためて思う。最初、かなり立っての踊りの時間のあと、横たわる。最初土壁をてのひらでかるく叩いて、辺にそって歩くとき、この人の足は掌みたいに地面にふれるなあと思う。よこたわってからの踊りを観ていて、ひょっとしたらこのひとも「自分にとっての普通」をてらいなく呼吸させていたいと思っているのかもしれないと思う。「普通の同志」(?)のような気がして、勝手な思いこみかもしれないけれど、少し嬉しくなってしまった。
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